少年Aの場合 |
「蒸し暑い〜!!」
その言葉は一般的に言う『夏』という季節の訪れを告げる言葉だ。
僕にとって夏はどう言う季節なんだろう?
僕はきっと夏が好きだと思う。
だって、別に熱いのに耐えられないことは無いし、夏休みがあるし。
でもそう思っていられる時間はもうそんなに長くは無かった。
夏休みのある日、僕は好きな人ができた。
その人は僕がよく行く公園のベンチに座っていた。
ベンチに座っているその人はいつも空を見上げていた。
空は雲一つ無く、太陽の日差しがその存在を充分すぎるくらいに主張していた。
そんな空をその人は汗一つかかずに眺めている。
いつもそうだった。
綺麗だった。
まるでそのベンチの周辺だけ別世界のように見えた。
僕には。
僕はその人のことを知りたくなった。
無性に知りたくなった。
そんな意識だけで僕はその人に声をかけた。
「こんにちは」
僕はなるべく自然に声をかけた。
そのほうが良いと思ったから。
その人はやさしい表情を浮かべて返答してくれた。
「こんにちは」
僕は顔が赤くなっていくのがわかった。
きっとものすごい顔になっているだろう。
そんな事を知ってか知らないかその人は僕をベンチへと誘った。
「立ってないで座って話しませんか?」
断る理由も無いので僕はその人の隣に座った。
そこはやはり別世界だった。
景色が違い、空気が違い、そして何より僕自身が違った。
こんな気持ちにはなったことが無い。
僕は何を話せばいいのかわからなくなってしまった。
やはりその人はそんな僕の心を見透かしたように僕に話しかけてきた。
「君はいつもこの公園に来てるの?」
「はい。この公園にいるととてもおちつくんです」
「そうね。私もそうよ。このベンチに座ってこうやって空を眺めると」
その人はそう言うといつものように空を見上げた。
近くから見てもやはり汗一つかいていない。
「こうやって空を眺めてるとね、自分も空の一部分になれるような気がするの」
「空の一部分?」
僕にはよくわからなかった。
空は空であって、けしていくつかに分かれているものではないじゃないか。
またその人は僕の心を見透かし話しかけてきた。
「けして空がいくつかに分かれているわけじゃないけど、空を自由に動き回ることはできるのよ」
「それって飛行機とか、ヘリコプターとか?」
「そうじゃなくってそういう風に思うことができるってことよ」
僕はますますわからなくなった。
いくら考えてもわからない。
でも、僕はなおその人のことが好きになった。
僕はその人の話を聞くことに夢中になった。
時が経つのも忘れるほどに・・・・・。
「あら、もうこんな時間」
その人は右手の腕時計を見て言った。
その言葉は僕の一部分の終わりを意味していた。
午後5時50分、まだ夏の日差しは元気いっぱいに照っている。
「ごめんなさい、もう私は帰るね」
「あっ、はい」
なんかボーっとしていた。
その人の世界から抜けきれていないような感じだ。
でもけして嫌な感じではなかった。
むしろ心地よく、自分の居場所ができたような感じだった。
「あの・・・また会えますよね」
僕は自分でも気づかぬ間に聞いていた。
「えぇ、いつもの時間にこのベンチに座ってるわ」
「毎日ですか?」
「えぇ、晴れてても、雨が降っててもいるわ」
僕は明日の再開を約束した。
次の日、僕はいつもの時間に公園のベンチの前に来た。
その日は雨、それも土砂降りだった。
それでもかまわなかった。あの人に会えれば。
僕はいつもより1時間も早く来た。
待っていられなかったんだ。
1分でも、1秒でも速くあの人に会いたかった。
僕はベンチに座ってあの人が来るのを待った。
ベンチにあの人のぬくもりはまだ無い。
僕はただひたすらに待った。
あの人を。
ただ、ひたすらに・・・・・
・・・・・どのくらい待っただろう。
ベンチにあの人はいない。
僕は傘をさしていない。
最初はさしていたけど。
どうしてだろう。
きっと雨の一部分になってみたかったからだ。
僕は雨の一部分になれているのかな。
あの人ならわかるだろうか。
会いたい。
ただ会いたかった。
でも・・・いない。
きっと雨がひどかったから来なかったんだろう。
そう思い僕は家に向かって帰り始めた。
ベンチの僕が座っていた一部分が雨で濡れていった。
帰り道の足取りは重い。
会えなかった。
あの人に。
しかたのないことかもしれないけど。
車の通る音がやけにうるさく聞こえた。
雨の音も十分うるさいはずなのに。
自分の足が水溜りの水を跳ね上げた時の音がやけにうるさく感じた。
雨の音のほうがずっとうるさいはずなのに。
道を歩いていると救急車が病院へ向かっているのを見かけた。
だれだろう。かわいそうだな。
病院は目と鼻の先。
救急車のうるさいサイレンの音は鳴り止み、病院の中へ入っていった。
僕も病院の前に差し掛かった。
救急車から人が担ぎ出される。
あの人だった。
会いたいと願ったあの人だった。
空の一部分になっていたあの人だった。
ベンチに座って一緒に話したあの人だった。
そして・・・僕が好きになったあの人だった。
走った。
僕は走った。
僕は風の一部分になりたいと願った。
そして風の一部分になった。
きっと。
手術室。
目の前の部屋。
僕とあの人との壁。
あの人は交通事故に遭った。
加害者は逃走。
今も見つかっていないらしい。
そんなことはどうだってよかった。
あの人が無事であるなら。
またあの人と話すことができるのなら。
夏の暑い日差しの中、あの公園のベンチで。
ただ祈るしかなかった。
窓の外から聞こえる雨音がうるさくなっていた。
手術中のランプが消えた。
手術室の中から数人の医者が出てきた。
「午後10時25分、ご臨終です」
思ったより衝撃は少なかった。
あまりにもあっけなかった。
でも・・・信じられなかった。
僕は手術室の中に入り、そして・・・あの人を見た。
あの人は交通事故に遭ったとは思えないほど綺麗な顔をしていた。
僕が知っているあの人だった。
脈がなく、呼吸をしていないことを除けば。
僕は夏が嫌いだ。
思い出したくない季節だから。
あの夏の出来事を忘れることはできない。
脳裏に焼き付いて離れることはない。
結局僕はあの人の名前をあの人から聞く事ができなかった。
僕にとっては『あの人』であって『その人』だった。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
僕はあの出来事以後好きな人ができていない。
できるわけがなかった。
あの人は今も大空の一部分として存在しているから。
この大空の・・・・・
そして今、僕はあの公園のベンチでこの大空を見上げている・・・・・
End