魍魎降臨録
序〜月下に煌めく光あり〜
執筆完了日 04/04/28 | 公開日 04/10/02
太陽はだいぶ前にその日の役割を終え、沈みきっていた。アスファルトの道路には、日差しの温もりなど少しも残っていない。
代わりに浮かんでいるのは、雲ひとつ無い夜空にくっきりと映える三日月。
太陽には到底及ばないが、それでも十分な光源となって夜の街に仄かな光を与えている。
月光は、地上の様々な物を照らしだす。
そびえ建つビル群。建ち並ぶ民家。行き渡る道路。そして――――
小道に居る一人の少女。
美少女と呼んでも差し支えないであろう顔立ちの持ち主。だが、その顔は今まさに恐怖で歪められている。
足を震わせながら見据える視線の先――そこにはある『生物』が存在していた。
その存在を疑ってしまうような奇怪な音を鳴らしながら、ゆっくりと少女へと近づいてくる。
少女はもう、立つことすらできなくなっていた。力なくひざを折り曲げ、その場にへたり込む。
少女が見据えるもの――それはまさしく『異形』だった。
滑りを帯びた皮膚が、月光によって怪しく照らされていた。品なく滴る唾液のようなものが、異形の喜びをうかがわせる。
もう、少女に成すすべは残されていなかった。視線を逸らすことすらできないのか、目はずっと見開かれている。
――しかし、少女の視線は異形に向けられているのではなかった。
少女の視線の先――そこに居たのは一人の少年。
少年は漆黒の双眸を異形に向けながら、何の感情も見せずに近づいてくる。
異形は少女の視線に気付いたのか、足を止め、ゆっくりと背後を振り返る。そして、少年の存在を確認すると、鋭い牙を剥き出しにして低い雄叫びを上げた。
だが、少年は全く怯むことがなかった。両手を前に出し、握っていた物の封印を解く。
少年が握っていたもの――それは刀だった。
刀は日本刀ほど長さを有しておらず、小太刀ほどの長さ。柄や鞘に凝った装飾などはなく、申し訳程度に艶がけがされている。
少年の腕が動くと、その刀身が徐々にあらわになる。不思議なことに、刀身は自ら紅い光を放っていた。
その光を見ると、異形は逆上したかのように少年に襲い掛かっていった。鋭い鉤爪のようなものを、勢い良く振り下ろす。
――しかし、その鉤爪が少年の身を切り裂くことはなかった。
少年は素早い動きで刀を振るっていた。刀は異形の腹部を切り裂き、奇声と共に異形を倒れこませる。
異形は腹部から異質な体液を噴き出していた。立ち上がることができず、地べたでもがき苦しんでいる。
「――――うせろ」
冷徹さすら感じられない言葉と共に、少年は異形の頭部に刀を突き刺す。
異形に抵抗する力は残されていなかった。微かに呻き声を上げた後、絶命する。
そして、この小道に亡骸が残ることはなかった。――異形は絶命すると、体液もろとも灰となって消えたのだ。
少年はそれを確認すると、刀を鞘に収め、少女に視線を移しゆっくりと歩み寄る。
少女は漆黒の双眸から目を離せずにいた。恐怖に勝る絶望が、身体の自由を奪う。幻であると願うことすらできないほど、アスファルトから冷たさがリアルに伝わってくる。
少女は現状を理解できずにいた。――いや、そういった思考をすることができずにいた。ただ脳裏に浮かんでくるのは一つだけ。
――――待ち受ける『死』。
そんな状態でも、全身の感覚だけははっきりとしていた。
少女の視覚は、すでに目の前まで来ている少年の姿をはっきりと認識している。
少年は少女の側にたどり着くと、腰を落として目の高さを合わせる。
そして、顔面蒼白な少女に向かって言った。
「――どうやら俺は、お前を守るために生まれてきたらしい。だから、おとなしく俺に守られろ」
やはり、その言葉に感情は込められていなかった。呆然としている少女を尻目に、少年は返事を待つこともなく静かに去っていく。
辺りはその静けさを取り戻していた。少女の瞳に映るのは、見慣れたいつもの帰路。
――月光が、何事も無かったかのように辺りを照らし続けていた。