プロローグ〜そしてこれで10回目〜

 耳にたこができるくらい、毎日のように聞いている蝉の鳴き声。
 しかし、その勢いも徐々に弱まってきている時期。
 夏休みもついに終わりを告げようとしている八月の末、俺の十回目の『それ』の準備も、夏休みと同じように終わりを告げかけていた。
 俺は今、自分の部屋の隅に立って寄りかかっている。
 部屋を見渡す。
――何にもない。
 机も、椅子も、ベッドも、箪笥も、テレビも、ビデオも、何もかも。
 ただ、この二階の窓から見える景色だけが、いつもと同じ様な表情を見せている。
 こう改めて自分の部屋を見てみると、この五畳半のスペースもなかなか広く見える。
 部屋の中を歩くだけでも一苦労だったのが嘘のようだ。
 でも、似たような光景は過去に九回は見てきている。
 俺は、『それ』をするときは毎回のように隅に寄りかかって部屋を見渡す。
 こうして、自分がいた場所を忘れないようにしている。
 自分の部屋が、俺にとって唯一の落ちつける場所だから、忘れてしまうわけにはいかないのだ。
 ……だが、今回はそれだけじゃない。
 この部屋…いや、この家は『家族全員』で暮らした最後の場所だから……。

「翔羽! 部屋片付いた〜?」
 …ふと、この家に来てすぐのことを思い出すと、今にも俺を呼ぶ母さんの声が、一階の方から聞こえてきそうに思える。
 俺はそっけなく「あぁ、終わってる」と答えるが、
「え〜? 何〜? 聞こえない〜!」
 な〜んて聞き返してくるんだ。
 だから俺は少し声を荒げて……。

 ……ハァ。
 俺は過去にあった今では絶対に起こりえないことを思い出し、小さくため息を吐くと部屋を出て下り階段へと向かう。
 十室目の俺の部屋の大きさは、下り階段へと向かっていく度に小さくなっていった。
 このときにはもう、この部屋は俺のものではなくなっている。
 俺の空間はまた新しい場所へと移動するのだ。
 階段を降りる。
 一段一段ゆっくりと。
 俺の空間の余韻を感じるように……。
「俺の空間…次の場所でまた会おうぜ!!」
 俺は小さく、しかし強い意思を込めて、俺の部屋だった場所に向かって叫ぶ。
――ちょっとした決め台詞みたいなものだ。

「しょうは〜♪ ちょっと来て〜♪」

 ……しかし、俺のカッコイイ去り際は、突然の明るい声で音も無く崩れ去った。
 俺は顔を引きつらせながらも、素早く階段を下りきって、目の前にあるドアを開ける。
 そこはリビングルーム。
 まだかろうじて俺たち――橘家のリビングルームだ。
 リビングルームといっても、もう何も無い。
 あるのは少数のダンボール。そして、何故かチャイナドレスを着ている一人の女。
 橘 舞羽……俺の姉貴だ。
 俺はドアの位置で立ち止まり、姉貴との距離が保たれていることを確認してから話しかける。
「何だよ! 折角の雰囲気を壊しやがって!!」
「え〜? 何の事だかわからないけど、別にい〜じゃん♪」
 姉貴は本当に何のことだかわかっていないらしく一瞬首を傾げて困ったような表情を見せたが、それも数秒のこと。すぐに満面の笑みに変わる。
 …そんな姉貴を見ていると、余計に腹が立ってくる。
「良くない! それに何だよその格好は!!」
「えへへ〜♪ どう?似合ってるでしょ〜♪」
 さも当然のように答える姉貴に呆れてしまうが……確かに似合っている。下地が良いのだ。
 身長168センチ、綺麗に整った黒のストレートロングヘアー、パッチリとした目、邪魔にならずバランスの良い鼻と口からなる顔立ち、豊かなバスト、程よく引き締まったウエスト、全体を安定させるヒップ。
 そこにチャイナドレスが被さるのだ。
 胸部の綺麗な膨らみや、スリットから時折覗かせる足を見たら大抵の男は目を釘付けにするだろう。
 しかし……そんなこと、俺には全く関係ない。
「そういう問題じゃないだろ! ……ったく! で、何の用だよ?」
「何の用って…だからこれを見てもらいたかったんだよ♪」
「……………」
「…あれ〜、どうしたの〜?」
「……そんなことでいちいち呼ぶんじゃね〜!!」
 ブチッ
 な、何かが切れる音が……。
「そんなこと?」
「ゲッ…マズイ……」
「そんなことですって〜!!」
 姉貴の表情が一変し、目をつりあげ俺を睨み付ける。
 さっきまでの『かわいい』というイメージから一変して『女王様』というイメージになる。
 これはこれで好きな人は好きかもしれない。
 ……俺はどっちも好きにはなれないが。
 とにかくこのままじゃマズイから静かに後方に下がる。
 ゆっくり…ゆっくりとドアから外へ……。
「…待ちな!!」
 姉貴の鋭い声が一直線に突き刺さる。
「ま、待てるかよ!!」
 俺はこの危機的状況から逃れるため、なんとかその場からの撤退を試みる。……しかし、
「させるかっ!!」
 姉貴は驚異的な早さで俺に近づき、そして……。
「翔羽っ! 覚悟!!」
 姉貴は恐怖で竦みあがっている俺に抱き着いてきた。
 普通の男ならこれ以上無いという至福の時なんだろうが、俺にとっては地獄以外の何者でもない。
「うわ〜! や、やめろ〜!! …やめ!! …や! ……」
 ……姉貴の熱い抱擁で俺の意識は朦朧となり、ぐったりと姉貴の身体に全体重を預ける。
 意識が完全に途絶える直前、姉貴が勝ち誇ったような嘲笑を浮かべているのが見えた。
 そして、俺は完全に気絶してしまう。

 俺は…『女性恐怖症』なのだ……。

 姉貴だからこうやって話すことが出来るが、全然知らない女性とは話すのも辛い。
 まして肌と肌が触れ合うなんて事があったら、それが姉貴であっても今のように気絶してしまう。
 姉貴はそのことを知っているから、キレたときなんかは今のようにわざと俺に抱きついてくる。
 しかも、姉貴はコスプレが趣味だから変なものをいろいろ着ていて俺の機嫌を悪くさせる。
 そして、それに対して俺が怒り、姉貴がキレる。
 ……まさに悪循環だ。

 ……気がついたときには、俺は車の中にいた。
「おっ! 気がつきましたか翔羽君」
 前方から声が聞こえる。
 橘 純羽…俺の親父だ。
 親父は、俺や姉貴のことを君・さん付けで呼ぶ。
 なんでそういう呼び方をするのかはよくわからない。…けど、俺は結構そう呼ばれるのが好きだ。
 ……徐々に朦朧としていた意識が回復してくる。
 目の前には運転席に座っている親父。
 親父は茶髪で、前髪を真ん中から分けてまとめた髪型をしている。傍から見るととても優しそうに見えるだろう。
 まぁ実際にとても優しい。
 その奥にはフロントガラス越しに見える景色。
 どうやらここは、高速道路のサービスエリアにある駐車場らしい。
 右を向こうと思ったが何故か向けなかったので左を向くと、姉貴の顔と、その下にチャイナドレスの一部分が見える。
 これで家族全員だ。
 ……母さんは一年前に白血病で逝ってしまった。
 まぁ生きているときから病弱で、医者からは「いつ死んでもおかしくない」って言われてたから、悲しいけどそんなにショックは無かった。
 ちなみに母さんは死んだとき三十四歳。
 今俺は十六歳、姉貴は十八歳、親父は三十七歳だ。
「やった〜♪ ついに克服できたじゃない♪」
 姉貴の陽気な声がすぐそばから聞こえた。
 克服? …いったい何を……んっ!?
「うっ!!」
 状況を把握した俺は、起きて早々再び気絶した。
 俺は姉貴に膝枕をされた状態で横向きになって寝ていたのだ。
「はぁ、やっぱり駄目だったか♪」
「翔羽君の女性恐怖症…何とかならないものですかねぇ」
「ゆっくり慣れさせるしかないでしょ♪」
「……そうですね、よろしくお願いしますよ舞羽さん」
「はいはい♪ こいつ結構からかいがいがあるからこっちも楽しいし♪」
「さぁ、そろそろ運転を再開しますよ」
 俺が次に起きるのはいつだろうか……。

「さぁ、着きましたよ!」
「起きろ翔羽〜♪ 起きないとまた引っ付いちゃうぞ〜♪」
「うわぁ!!」
 姉貴の声の魔力で俺は飛び起きた。
「おはよ〜♪」
「……着いたのか?」
「えぇ、着きましたよ。新しい我が家です」
 外から車のスライドドアを開けて話しかけてくる親父と姉貴は笑顔だ。
 俺は車から出て目の前にある新しい我が家を見る。
 外観は純和風の家、庭付きだ。
 辺りはもう暗く、見上げれば月が微笑みかけてくる。
「さぁ! 中に入りましょう! 舞羽さん! 翔羽君!」
「そうね♪ 入りましょ♪」
 二人はそそくさと家の中へと入っていく。
 その後姿は……。
 何故かスーツ姿の男にチャイナドレス姿の女。
 ……傍から見るとなんかやばい光景だ。
「ふぅ」
 俺はため息を一つ吐いてから家の中へと向かう。
 ドアを開け、玄関に入る。
 玄関は程よい広さで、左側には収納スペースもたくさんある。
 下を見ると親父と姉貴の靴が綺麗に並んでいる。
 俺はその靴の隣に靴を脱ぐと家内を散策し始めた。
 まず、玄関から右側に見える、開いた状態のドアの先にある部屋へと向かう。
 そこはリビングルーム。
 物がなにも無いからかもしれないが、とっても広く感じる。
 そのリビングルームの右側には和室。
 左側にはシステムキッチンがある。
 キッチンもゆとりのあるスペースがとても良い。
 一度入ってきたドアからリビングルームを出て、玄関からの道をまっすぐ進む。
 その道の左側には収納、トイレ、階段、風呂場があり、突き当たりはシステムキッチンに出る。
 一階はこれで全部周った。
 しかし親父も姉貴もいない。
 となれば……。
「上か…」
 俺は階段を上り二階へと向かう。
 緩やかなカーブを描く階段を上りきると、右側にあるドアの前に親父が立っていた。
「どうしたんだ?」
「あっ、翔羽君。いえ、ちょっと……」
 親父が言葉に詰まっているとき、その部屋の中から姉貴の声が聞こえてきた。
「お父さんには悪いけど、この部屋は絶対に私のだからね♪」
「……ずっとあの調子なんですよ。私もこの部屋が気に入ったんですけどねぇ」
 親父は呆れたように顔をうつむかせて言った。
 ふと俺の頭に一つの疑問が生じる。
「おい…俺には最初から部屋を選ぶ権利は無いのか……」
 親父は急に表情を明るくして―――。
「いやぁ、やっぱりこういうものは早い者勝ちでしょう!」

 ……………。

「だったら親父達も早い者勝ちで決めればいいだろ!」
 俺は親父の数倍呆れた表情をして叫んだ。
「いやぁ、それが部屋に入ったのが舞羽さんと一緒で、『ここがいい!』と思ったのも同じ時なんですよ」
 ……ったく変なとこで気が合うんだよな、親父と姉貴は。
 ……それなら。
「じゃあじゃんけんでもして決めれば?」
 俺がそう言うと親父はいきなり両手を俺の両肩の上にのせ、
「それはグッドアイデアです! 翔羽君!!」
 親父はそう言うと部屋の中に入り、姉貴とじゃんけんをし始めた。
 親父と姉貴の声が聞こえる。
「じゃんけんぽん! あいこでしょ! あいこでしょ! あいこでしょ! あいこでしょ! あいこでしょ! ……」
 ……俺は無視して他の部屋を見ることにした。
 振り返り、先を見ると右側にドアが一つ、左側にトイレ、そして突き当たりにもう一つドアがあった。
 俺はまず手前の右側のドアを開けてみる。
 部屋は一人部屋には広すぎるくらいの広さをもっていた。
 部屋の入り口の真正面に大きな窓が一つあり、日当たりも良好そうだ。
 奥を見るとベランダもあるようだ。
 ベランダへ出てみる。
 夜の涼しい風が気持ち良い。
 ベランダからの景色はなかなかのもの。
 ちょうど前に障害物が無く、奥に無数の明かりが見える。
 日中の景色も見てみたくなる。
 俺はベランダから出て部屋を見まわす。
 その一つ一つが身体に馴染む気がする。
 俺は親父の言葉に習って、この部屋を俺の部屋にすることを決めた。
 俺の十回目の引っ越しは仮終了。
 そして十一個目の俺の空間―――俺の部屋だ。
 その後、とりあえずもう一つの部屋にも入ってみたが、窓の先が隣の家の窓だったからこの部屋は遠慮することにした。
「翔羽〜♪ ご飯――」
 姉貴の声が一階から聞こえる。
 どうやら部屋の問題は解決したらしい。
「飯か……」
「ご飯作って〜♪」
 ドテッ

 その日、荷物が全部届いたダンボールだらけのリビングルームで、俺が作ったスパゲティを家族全員で食べた。
 姉貴のチャイナドレスがスパゲティにあまりにも合わなくて、思わず笑って噴出しそうになってしまう。
 ……いいかげん着替えろよ。
 時刻は深夜一時、もう日曜日から月曜日になってしまった。
 今日は新しい高校へはじめて行く日。
 姉貴が珍しく俺のために集めてくれた情報によると、その高校は共学だが男子の人数が全体の九割を占めるらしい。
 俺にとってはとても望ましい環境だ。
 俺は寝坊しないように目覚し時計を取り出し、リビングに布団を敷いて睡眠モードに入った。
 しばらくすると両隣に人の気配。
 気づいたときには家族三人川の字になって寝ていた。
 親父はスーツ姿のまま、姉貴はチャイナドレス姿のままで。
 ……いったいどういう神経してるんだか。
 えっ? 俺はどういう格好をしているかって?
 俺は……俺は前の我が家にいたときからずっとジャージ姿だ。
 ……おやすみなさい。

「起きなさ〜い♪ 翔羽〜♪」
「……………」
「お〜い♪ 起きろ〜♪」
「……………」
「……よ〜し♪ それっ♪」
「う、う〜…!! うわ〜!! ギブ! ギブ!!」
 俺は右手をフローリングの床に勢いよく叩いてギブアップの意思表示をする。
 しかし、姉貴の必殺技『コスプレ四の字固め』は見事に決まっている。
 しかも姉貴に止める素振りは無い。
 ちなみに今朝の姉貴のコスプレはスッチー、スチュワーデス姿だ。
 ……スチュワーデスがかける四の字固めっていうのもどうかと思うが…って、今の俺にそんなことを思っている余裕は無い。
「あ、姉貴! ギブ! ギブ〜!! っつ〜か朝から気絶したくね〜!!」
 必死の叫びが通じたのか、ようやく姉貴の四の字固めは解かれた。
「おっは〜♪ 翔羽〜♪」
「はぁ、はぁ、な、なにが『おっは〜♪』だよ! 殺す気か!?」
「何よ〜、目覚し時計が鳴っても全然起きない翔羽が悪いんでしょ〜♪」
「……!! 今何時だ!?」
「7時半よ♪」
「7時半!?」
 俺はダンボールから急いで制服を取り出し、素早く着替える。
 新しい制服からは独特の匂いがして、新しい生活が始まることを実感させる。
「翔羽〜♪ ご飯は〜?」
「いらない!!」
「そうじゃなくて〜♪ ご飯まだ〜?」
「はぁ?」
「ご・は・ん・ま・だ〜?」
 ……なんだよその懇願するような眼差しは!!
「自分で作れ!!」
 俺は教科書を入れておいたカバン――肩からかけられるタイプのもの――をダンボールから取り出し、玄関に向かう。
「翔羽〜♪」
 またしても姉貴の声。
「何だよ!!」
「忘れ物〜♪」
 姉貴はビニール袋に入った革靴を投げてきた。…すっかり忘れてた。
「……サンキュ」
「行ってこ〜い♪」
 俺は玄関から、新しい生活が始まる学校へ向けての第一歩を踏み出すべく、姉貴から受け取った革靴をビニール袋から取りだして履き、カバンを肩にかけて玄関の扉から飛び出した。
 玄関先では親父が花に水をやっている。
「おっ、翔羽君! 新しい制服、似合ってるじゃないですか! 遅れないように気をつけてくださいね!」
「うぃ〜す、行ってきます!」
 ……ん?
「親父! 仕事は?」
「仕事? ……あぁ、まだ改装工事が終わってないんですよ。それにまだ花も出荷してないですし」
「あ、そうか」
 うちは…花屋さんなのだ。
 母さんが元気に前の家にいたときからずっと花屋さん。
 母さんが死んでから一年間、前の家で花屋を続けることが死んだ母さんのために出来ることだと親父はずっと思っていたみたいだが、親父はついこの前、急に『引っ越しをしますよ!』と言い出し、結局今の状態に至っているのだ。
 きっと、ようやく母さんのことでの気持ちが整理できたんだろう。
 まぁ、俺としては引っ越しすることが出来たのは嬉しい限りだ。
「おっと! 急がないと!! そんじゃ! 行ってきます!!」
 俺はそう言うと愛用のマウンテンバイクにまたがり、勢いよくペダルをこぎ始めた。
 正面から感じる風が、なんとも心地よい。

――今日はいい天気だ!



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