番外編1〜想いよ永遠に―二人の里程標―〜 |
車から降りると、辺りに茂る木々の緑々とした色合いが、鮮やかに僕の瞳に写し出された。
涼しい風が、ざわめく木々が、そっと僕の身体を前へと押し進めてくれる。
荷物の確認をしながら、ゆっくりと目的の場所へと歩みだす。
時折する深呼吸は、僕にとって必要不可欠な行動だ。
市街地からだいぶ離れた場所にある、小規模な墓地。
そこは、僕――橘 純羽にとって特別な場所だ。
そこには、忘れることなど出来るはずも無い、大事な……大切な人が眠っている。
橘……いや、水瀬智子。――僕の永遠の妻が。
墓地の敷地内に入ると、より辺りが涼しく感じられる。
今日は十月十八日。お盆は、とっくに過ぎ去っている。
それでも、ここに来るのは今日でなければならなかった。
――今日は、智子の誕生日なんだ。
綺麗に敷き詰められた小石の道を進むと、目指す智子の眠る墓が見えてくる。
墓の前に辿り着き、ゆっくりと腰を落とす。
そして、持参してきた花を挿そうとするが――何故かそこには、まだまだ瑞々しい花がすでに存在していた。
つまり、『誰か』が先に来て花を挿していったということになるが、僕にはその『誰か』の見当がついていた。
お盆ではなく、わざわざ智子の誕生日に花を挿しに来る人物。そんな人物は、そうそう居るものではない。
「よぅ、来たか」
「やっぱり裕樹か……」
声に気付き背後を振り向くと、そこには予想通り、僕と智子共通の友人である安田裕樹が居た。
裕樹とは中学生の頃からの付き合いで、僕と智子のことを様々な意味で認めてくれた、大切な友人だ。
裕樹は僕の姿を確認すると、周りを軽く見まわしてから、小さく息を吐きつつ呟く。
「……やっぱり、子供たちは連れてきていないんだな」
「あぁ……まだ、連れてくることは出来ないよ……」
そう、僕はこの場所に、子供たち――舞羽さんと翔羽君を連れてきていないんだ。
けして、二人の都合が合わないということが理由なのではない。
――僕自身が、子供たちをここに連れてくることを拒んでいるんだ。
何故かと言うと――
「……まだ、気持ちの整理は着かないか」
「いや、だいぶ落ち着いてきたさ。……智子がいなくなってすぐの頃に比べれば。ただ……ここに来ると、どうしても……な」
「自分の弱い部分を子供たちには見られたくないか……」
「まぁね。……それを見せることで、子供たちに余計な不安感を与えたくないからさ」
「なるほど。……お前らしいな。ま、お前のことだから普段は明るく振舞ってるんだろ? ……今日くらいは、感傷に浸ったっていいだろうよ」
――そう、僕は怖かったんだ。
智子が居なくなった時、僕は精神的に壊れかけた。
現実逃避――そんな生温い感情ではない……と、自分では思っている。
まさに自暴自棄。全てが意味を成さない物に見え、自分自身さえも、何のために存在しているのかわからなくなった。
そんな時、僕の心の支えになったのが、子供たちの存在だったんだ。
舞羽さんに翔羽君。二人が居なかったら、大げさでも何でもなく、僕は死を望んでいたかもしれない。
智子が死んだ時、すでに二人ともそれなりに成長していたから、それを真実としてしっかり受けとめてくれていた。
本当は、とても哀しく辛いだろうに。
でも、舞羽さんも翔羽君も、そんな仕草など微塵も見せなかった。
もちろん、気落ちした面を窺う機会は幾度となくあったが、感情を荒げることは全くなかった。
……だからこそ、僕は子供たちに『弱い姿』を見せるわけにはいかない。
子供たちの『父』として、智子の分までしっかりと子供たちを見守っていかなければならないんだ。
「……そんなこと言われなくても、嫌でも感傷には浸ってしまうさ」
僕は、優しい表情で言葉を掛けてきた裕樹に向かってそう答える。
この場所――智子の前に来れば、おのずと数々の想い出が蘇ってくる。
智子との出会い、智子への告白、智子とのデート、智子へのプロポーズ、智子との結婚式、智子との新婚生活。
そして……智子との別れ――
――――僕の視界は、見る見るうちにぼやけていった。
「……色々……あったんだよな」
そんな裕樹の言葉が、完全に脳の動作を想起へと向かわせていた。
* * * * *
――中学三年生の春。
美術部に所属していた僕は、その日もスケッチブックと画材を持って、お気に入りである校舎横の花壇があるスペースに座りこみ、陣取っていた。
花壇に植えられた咲き誇る花々を写生することが、放課後の僕の楽しみだった。
自然と表情を緩めながら、スケッチブックに向かって鉛筆を滑らせる。
葉、茎、花弁、それぞれの色を表現することは出来ないが、モノクロだからこそ出せる、独特の質感や雰囲気というものがある。
僕は、鉛筆で濃淡を表現することが好きだった。
ほんの少しの筆圧の差でも、その濃さは変化する。
そんな微妙な変化を、神経を研ぎ澄まして表現する。
その、神経を研ぎ澄ましている時間が、何とも心地よかった。
もう、他のことなんて全く頭に入りこんでこない――
「――――綺麗ですね」
――くらいに集中しているつもりだったのに、何故だかその声はやけにすんなりと、僕の耳に入りこんできた。
川の流れのように淡々とした、でもしっかりと感情のこもっている声。
僕は、何の迷いもなく背後を振り返っていた。
そこに居たのは、全く面識のない女子生徒。
制服のリボンの色で、彼女が入学したての一年生であることがわかる。
時折吹く微風で、彼女のショートヘアーが軽くなびく。
彼女は微笑みながら、スケッチブックに描いていた花を見つめていた。
僕は……その姿から視線を離すことが出来なくなっていた。
「あの……美術部の方……ですよね?」
そんな彼女の言葉で、ようやく僕は我に返る。
「あ、あぁ、そうだけど……」
「良かったぁ。美術室に行っても誰も居なかったから……」
「えっと……何か用でも?」
いまいち彼女の言葉の意図を掴めずそう返すと、彼女は突然、ピッと姿勢を正して真剣な表情で話しだす。
「私、美術部に入部したいんですっ!!」
僕は、その言葉をかなりの衝撃をもって受けとめていた。
……けして、悪い意味ではない。
正直、あまり人気のない美術部に、入部希望者が現れるなんて……。
良い意味で、予想外の出来事だったんだ。
ものすごく、ホントにものすごく嬉しかった。……でも、
「その……ホントにうちの部なんかでいいの? さっき、美術室に行って誰も居なかったって言ってたけど、あれは、うちの部員がほとんど幽霊部員だからなんだ。……っていうか、正直言えば、まともにやってるのって、多分僕だけなんだよ。だから――」
中途半端な気持ちだったら入部して欲しくなかったし、何より今の美術部員は僕だけと言って良いほどに、他の部員は幽霊部員だったから、そんな状態の部に入ったら彼女自身が嫌な思いをするんじゃないかと思った。
だからこそ、そう切り出したんだけど……彼女は全く動じていなかった。
それどころか、より元気の良い声で話し始める。
「あっ、じゃあもしかして部長さんですかっ!? やっぱり部長さんだけあって、絵描くの上手いですね!」
「あ、あの、そうなんだけどさ……僕の話、ちゃんと聞いてた?」
あまりの反応に、思わずそう聞き返してしまう。
まぁ、絵のことを誉められて嫌な気分はしなかったけど。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女は表情を柔らかいものに変えて言葉を続ける。
「聞いてましたよ。……別に私、部員の多さで部活選んでるつもりはありませんし、幽霊部員さんがいっぱい居ても、全然気にしませんよ。それに――――」
そして彼女は笑顔で、僕に対して決定的な言葉を送り届けてくれた。
「――それに私、部長さんの絵のファンになっちゃいましたから♪」
そのときの心情は、どう表現すれば良いのかわからないくらいにめまぐるしく変化していた。
何と言うか、様々な感情が入り混じって心の中を動き回っているような――。
ただ、一つ言えることは、この時の僕は喜びの渦の真っ只中にいたということ。
それは、間違いなかった。
――なにせ、僕は彼女の言葉を貰ってから、しばらく彼女の笑顔から視線を逸らすことが出来なかったんだから。
もう、僕に彼女の申請を断る理由なんて存在しない。
「……入部届、一緒に顧問の先生に渡しに行こうか」
僕は自然と微笑みながら、そんな言葉を放っていた。
笑顔で頷く彼女の姿が、思わずスケッチしたくなるくらいに輝いたものに見えた。
また、それと同時に、今まで写生していた花が何ともみすぼらしいものに見えてしまい、思わず苦笑。
何のためらいもなくスケッチブックを閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
そして、改めて彼女に顔を向けながら、言葉を放つ。
「えっと、僕は美術部部長の橘 純羽です。……これから、頑張っていこう!」
そんな僕の言葉に、彼女は笑顔で返してくる。
「はい! 私は水瀬智子です。これから、よろしくお願いします!!」
これが、僕が智子と出会い、始めて智子の名前を知った瞬間。
――――世間一般的には早い方であろう、運命の人との出会いの瞬間だった。
* * *
放課後の美術室は、僕にとって格好の、智子と二人きりになれる場所だった。
智子と知り合ってから、三ヶ月。
僕の智子に対する想いは、もはや不動のものとなっていた。
――お気に入りだった校舎横のスペースで智子の姿を見たときに生まれ、僕の中で急速に育っていった感情は。
それまでは、まともに美術部員としての活動を行ってくれない幽霊部員たちの存在を恨めしく思うこともあったが、むしろこの時はそのことをありがたいとすら思っていた。
全く美術室に姿を現さない幽霊部員たちのおかげで、僕と智子は二人きりでいられたんだから。
もはや美術室は、校舎横のスペースに代わって僕のお気に入りスペースとなっていた。
……けど、その日に限っては、僕に『お気に入り感』を味わっている余裕なんていうものは無かった。
僕はこの日、ある一つの重大な決心をして、智子の居る美術室へと乗り込んでいた。
高鳴る鼓動は治まらず、期待と不安からは難解複雑な迷路のように抜け出せない。
だが、それに対して臆する気持ちは少しも無かった。
「ねぇ橘先輩、後でこの前描いた絵、見ていただけますか?」
そんな言葉を投げかけてくる智子に、僕はゆっくりと近づいていく。
目の前まで辿り着くと、智子は僕の雰囲気がいつもと違うことを察したのか、微笑を疑問の表情に移し変える。
――僕は、そんな智子の身体に腕を回し、しっかりと抱きしめた。
『あぁ、きっと出会った日から、ずっと僕はこうしたかったんだ――』
そんな風に、思った。
一分でも、一秒でも長く、智子のぬくもりを感じていたかった。
「あ、あの……橘…先輩? ど、どうしちゃったんですか?」
智子は、いったい何が起こっているのかわからないといった様子で、そんな困惑ぶりがもろに窺える言葉を言い放つ。
決意は、固まっていた。
ただ、いざとなると、口は中々動かなかった。
……でも、このタイミングを逃すわけにはいかなかった。
「水瀬…僕は……僕は水瀬のことが好きだ」
――そっと、智子の耳元で囁いた。
智子の表情を窺うことは出来ないが、それでも、彼女が顔を紅潮させているであろうことはわかった。
制服越しに感じる体温が、徐々に熱を帯び始めている。
長い沈黙が、閑散とした美術室の中に独特の雰囲気を形成させ始める。
「……ま、またまたぁ。たち悪いですよぉ、そんな冗談言っ――」
「冗談なんかじゃないっ!」
思わず目をギュッと閉じ、間違い無く廊下まで響いているであろう大きな声で叫んでいた。
そして、智子を抱きしめる手に力がこもる。
僕は、絵に関してはそれなりに器用な面を持っていると自負していたが、それ以外に関しては全くもって不器用だった。
ただ、ストレートに想いを伝えることしか出来ない。
「本気……なんですか?」
「………あぁ」
でも、思えば下手な小細工など、必要無かったんだろう。
――再び訪れた沈黙は、さほど長いものではなかった。
「私……可愛くないですよ?」
「……そんなことないよ」
『……………』
「頭、悪いですし」
「……確かにそうだな」
「ひっど〜い!」
もう、そんな冗談を言っても、何の問題も無かった。
互いの顔を、確かめるように見合う――――
――僕は智子に、喜びの沢山こもったキスをした。
僕が智子にした、始めてのキス。
そしてこれが――僕と智子の唇が重なった、二度目の瞬間だった。
* * *
付き合い始めると、お互い、今まで知らなかった面を知ることになった。
智子はとにかく心配性で、それと共にしっかりものだった。
高校へと進学して、一年の年月が経った頃、僕は……父を失った。
咽頭がん――まだ、三十八歳という若さだった。
母は泣き崩れ、僕は、ただただその現実を受けとめようと必死になっていた。
だが、僕はその事実をすぐに受けとめて、新たな生活環境に対応するほどの器用さを持ち合せてはいない。
食べ物は中々喉を通らず、悪夢を見るのを怖れて、まともな睡眠を取ることも出来ない。
また、絵を描く気力さえも、失いかけていた。
でも、父が死んだという現実は変わるわけもなく、僕は少しでも家計を助けるために、早朝の新聞配達、放課後からの飲食店店員といったアルバイトをすることに。
母は僕に無理をさせたくなかったみたいだけど、それでも僕をアルバイトに行かせなければならないくらい、家計は火の車だった。
幸い……と言って良いのかわからないが、僕に兄弟はいなかった。
つまり、母と僕との二人暮し状態だったから、二人分の生活費で済んでいた。
それでも、やはり辛いものは辛かった。
「お願いだから、そんなに無理しないでよ純羽君!」
そんな僕に、智子は毎日のように会いに来て、こんな言葉を掛けてくれていた。
見るからに痩せ細っていく僕の姿を見て、涙を流すことすらあった。
付き合ってすぐの頃は、僕のことを君付けで呼ぶことに対して疑問を投げかけるくらいの余力があったが、今やそんな気持ちの余裕すら無い。
何とか引きつった笑顔を作って、智子に見せてやる。
その程度のことしか、僕は智子にしてやれずにいたんだ。
智子は少しでも僕の負担を軽くしようと、毎朝新聞配達の仕事を終えて自宅に返って来た僕に、お弁当を作って持ってきてくれた。
今思えば、この時の弁当がなければ、僕は確実に倒れてしまっていただろう。
それでも――僕はそんな智子の存在すらも拒んでしまう時があった。
多分、精神的に限界が来ていたんだろう。
人の声を聞くことすら、苦痛に思えていた。
――しつこく心配の声を投げかけてくる智子に対して、僕は思いっきり平手打ちを浴びせかけていた。
どうかしていたんだ。その時の、僕は。
智子に対して、あんなにも憎しみに満ちた表情を向けたのは、その時が始めてだった。
でも――智子はそんな僕に対して、慈愛に満ちた表情を向けてくれていたんだ。
そして、必死に僕の苦しみを受けとめようとしてくれていた。
「辛いよね……苦しいよね……わかる…わかるよ」
「……わかる…だって? ……ふざけるなよ! 同じ思いをしたことなんて無いくせに、よくもそんな――」
僕は、見る見る腫れていく智子の頬に、より苛立ちを感じていた。
何故、自分はこんなことをしてしまったんだろうといった疑問から生まれた、自分自身に対する苛立ち。
そして、平手打ちをされたにもかかわらず、ただ僕のことを想ってくれる智子に対するものだ。
僕は、内から湧きあがってくる感情に、歯止めを掛けることが出来ずにいた。
だから、止めることなく叫んでいた。
でも――智子は僕の感情を強制リセットさせる言葉を、必死な形相で返してきたんだ。
「――わかるわよっ! ……だって……だって、私のお父さんだって死んじゃってるんだから!!」
僕は、一瞬智子が何を言っているのか、理解することが出来なかった。
それまで感情を剥き出しにしていた自分が嘘のように、ただ呆然と智子を見つめる。
智子は、そんな僕に向かって、表情を少し和らげながら話を続ける。
「……私のお父さんも、二年前に交通事故で死んじゃってるの。だから……わかるわよ」
「……………」
「うちはおじいちゃんとおばあちゃんも一緒に住んでるから、純羽君のうちとは違うかもしれないけど、それでもお父さんを失った辛さとか苦しさとかは、わかってるつもりだよ」
「………ゴメン」
僕は、ただそう返すことしか出来ずにいた。
智子の話を聞いているうちに、徐々に僕の頭は冷え始めていた。
そして、自分が犯してしまった過ちに、ようやく気付くことに。
――智子は、僕の目の前で声を出さずに涙を流していた。
智子が僕を想ってくれているということを、心から喜びに思えたのは、この時が始めてだったのかもしれない。
そしてこの時から、僕は智子のことを『水瀬』ではなく『智子』と呼ぶようになった。
――この時の僕にとって智子は、生きていく上での希望の光のような存在になっていた。
それから、僕と智子は今まで以上に愛し合うようになった。
お互いのことをより知り合ったことが、よりお互いのことを求め合うことに繋がったのかもしれない。
高校生最後の夏休み。
僕はこの期間をとても大事にしていた。
アルバイトで生活費を稼げるチャンスということもあるが、それよりも、そんな中でも智子と一緒にいられる時間が増えるということが、とても嬉しいことだった。
――自室のベッド上。
ふと横を向くと、産まれたままの姿の智子が、そっと微笑みかけてくれる。
幸せが、実感として湧いてくる瞬間。
快感や満足感よりも、まずそれを感じることの出来る喜び。
火照った身体から滲み出てくる汗がシーツに染み込み、うだるような熱気と湿気が僕を包み込む。
だが、僕にとってはそれすら、先程までの行為を実感させる材料にすぎなかった。
より幸せを実感したくなり、思わず智子を抱きしめる。
智子は愛くるしい笑みを浮かべながら、僕の身体にしっかりと腕を巻きつけてくれた。
――愛おしく思え、守りたいと思える存在がいるという喜びが、僕の中でしっかりと形成されていった瞬間だった。
* * *
――高校を卒業したら、すぐに就職をする。
僕はそう決めていた。
ただでさえ苦しい家計事情だったし、なにより僕には夢があった。
僕は、写生の対象にもよくする花々が大好きだった。
だから、花を扱う仕事に就きたいと思っていたんだ。
高校に入った時から密かに勉強をしていたおかげか、高校卒業後、何とか近所にある花屋で仕事をすることが出来ることに。
……だが、この時の僕は、素直にそのことを喜んでいられる状態ではなかった。
――それは、ちょくちょく仕事場に足を運んできてくれる智子の様子を見れば、すぐにわかることだ。
「おっ、智子ちゃんいらっしゃい。……お〜い、橘ぁ、智子ちゃん来たぞぉ!」
仕事場にやって来た智子を見つけた店長が、そう言って店の奥で雑用をしている僕を呼ぶ。
僕は適当な相槌を返しながら、ゆっくりと店頭へと向かう。
その最中、智子と店長のやりとりが聞こえてくる。
「智子ちゃん、最近の体調はどう?」
「はい、おかげさまで順調な感じです」
「えーっと……もう、どれくらい経つ?」
「もうそろそろ九ヶ月ってところです」
「そっかぁ。……だいぶ大きくなってきたもんねぇ」
店頭に辿り着くと、智子が満面の笑みで迎えてくれる。
僕はそんな智子に笑みを返すが、心中はあまり穏やかなものではなかった。
――智子の身体には、すでに新たな生命が宿っていたんだ。
始めてその事実を智子から聞かされた時、情けないけど僕の中では喜びよりもショックの方が大きかった。
自信が無かった。――全てのことに。
僕も智子もまだ高校生。
しかも、智子はまだ一年生。
――どう考えても、常識的には堕ろすのが普通な状態。
僕も、世間体や現状を考えると、それが妥当なんだろうと思っていた。
――だが、智子の考えは違っていた。
「私……私、純羽君の子供……産みたいよ」
僕は……耳を疑った。
そして、それと同時に混乱した。
智子の気持ちは嬉しい。
でも、そんな『個人的な気持ち』だけで判断できることではないし、仮に子供を持つことを決めたとしても、周りの反応は……考えるまでもないだろう。
それに、まだ僕には現実を受け止める自信が無かった。
だいたい、このまま妊娠した状態で、智子は高校に通い続けることが出来るのか?
っていうか、すでに周りから色々言われているんじゃないのか?
でも・……智子は子供を産みたいと思っている?
僕は……本当はどう思っているんだ?
……もう、何がなんだかわからなくなっていた。
目の前で、何か訴えるような表情を見せている智子のことを、直視することが出来ない。
「……智子の気持ちはわかるけど……少し……考えさせてくれないか?」
僕に出来たのは、そんな言葉を掛けてやることだけだった。
それからしばらく経った、ある日曜日のこと。
眠れない日々による脱力感に見まわれながらも、昼食の準備をしていた僕の元に、一本の電話がかかってきた。
大きなあくびをしながら受話器を取る。
――しかし、そこから聞こえてきた声で、僕から眠気は一気に消え去った。
「橘さんのお宅でしょうか? ……私、水瀬といいます。純羽君はご在宅ですか?」
壮年の女性の声。
どう考えても、智子の母親であることは疑う余地も無かった。
「……純羽は…僕です」
生唾を飲み込みながら、何とか言葉を返す。
智子の母親は、数秒の沈黙の後、ゆっくりと話しだす。
「……はじめまして。智子の母です。……何で電話したか……わかってますよね?」
「…………はい」
――もう、生まれてくるのは恐怖の感情ばかりだった。
この、長い一秒が怖かった。
智子の母親が、次にどんな言葉を投げかけてくるのか。――それを想像するのが怖かった。
そして、それを実際に聞くのが怖かった。
でも、そんな僕の感情など関係なく、智子の母親からの言葉は投げかけられる。
――しかし、投げかけてきた言葉は、僕が全く予想していなかった言葉だった。
「……お願い、純羽君。どうか……どうか、智子に子供を産ませてあげて!」
「あ、あの……それって……」
……僕がその言葉の意味を理解するのには、少々の時間を要した。
まさか、智子の母親からそんな内容の言葉を投げかけられるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
頭で言葉の意味を理解しても、それに対して言葉を返すことが中々出来ない。
そんな僕の心境を見抜いているのか、智子の母親は声質を和らげて話を続ける。
「最近、智子と会ってる?」
「……いえ」
「……智子ね、妊娠してることをあなたに言う前に、まず私に言ってくれたの。産みたい気持ちがあるってことも。……耳を疑ったわ。
もちろん、最初は反対したわ。聞いたら相手も高校生だって言うし、どう考えたって……ね。正直、あなたのことを恨んだりもしたわ。
でも……智子の気持ちは変わらなかった。それどころか、ずっと嬉しそうに私に話すのよ。――自分の中にいる命を感じる瞬間を。
ただ……あなたに妊娠のことを伝えた日は違った。
――帰って来た智子が、何だかもう抜け殻みたいに見えたわ。
ただ、呆然としながら呟くの。
純羽君が、わかってくれない――って」
言葉が…………出なかった。
「正直言えば、今だって私は反対したい。でも――智子はそれを望んでいないの。――だから、私はこれ以上反対することは出来ない。
――私は……母親として失格かもしれないわね。『今』だけを考えてしまうなんて。
でも、ずっと智子には苦労をかけてきちゃってるから……だから……だから智子が思うように・……させてあげたいの………」
声の最後は、かすれていてよく聞こえなかった。
でも……気持ちは嫌というほどに伝わってきた。
僕が悩み渋っている間に、こんなにも辛く苦しい思いをしている人がいる。
こんなにも、幸せを願っている人がいる。
そして何より、智子の気持ちが、ここまで決意に満ちていたなんて――。
「ありがとう……ございます」
そう言って、僕は受話器を降ろした。
次の日、僕は智子に子供を産んで欲しいと伝えた。
――智子の頬を伝う涙が、僕に大きな勇気を与えてくれた。
* * *
ようやく仕事にも慣れ始めてきた十九歳の夏――七月七日。
――僕は、この日のことを一生忘れることは無いだろう。
――――分娩室。
目の前で繰り広げられている作業を、僕はただただ見守ることしか出来ずにいた。
智子が必死に頑張っているのに、僕は…………。
出来たことと言えば、智子の手をしっかりと握ってやることくらい。
智子は僕の手をしっかりと握り返して、僕の存在を認識してくれていた。
――――長かった。
時間が経つのをこんなに長く感じたのは、これまでの人生の中で始めての事だった。
智子の、いきむのと同時に発せられる苦しそうな声。
周囲を囲む医師たちの的確な指示を送る声。
そして――
――室内に、生命の誕生を告げる声が響き渡った。
確かに、聞こえた声。
僕の耳に、しっかりと。
何とも言い表せない感情が、心の奥底から間欠泉のように吹き出してくる。
――気が付けば、涙が止めど無く溢れ出していた。
………これ以上、この時の僕の感情は表現しようがない。
とにかく、この瞬間、橘 舞羽という生命が誕生したんだ。
* * *
――――プロポーズ。
正直、言葉なんてものは必要無かったのかもしれない。――と、今では思っている。
でも、やっぱり一つのけじめとして、ちゃんと智子に伝えておきたかった。
舞羽さんの出産から一年の月日が流れていた。
智子はまだ学生だったが、すでに家族が誕生していた僕にとって、そんなことは全く関係の無いこと。
僕は智子を、知り合った中学の校舎横のスペースへと誘った。
「もう、あれから五年近くも経ったんだな……」
「そうだね」
「何か、長かったようにも感じるし、短かったようにも感じるよ」
「ふふ……そうね」
たわいもない会話にも、何か意味がこもっているような――そんな風に思えた。
この時に限っては、この場は僕と智子だけのプライベートスペースになっていた。
だから……というわけではないけど、僕は緊張感など微塵も感じることなく、すんなりと言葉を紡ぐことが出来た。
「智子……何だか、今更言うのも変な感じがするけど……僕と、結婚してほしい。これからも……ずっと、ずっと一緒にいてほしい」
「私には……純羽君しか考えられないから」
智子は、そんな僕のさりげないプロポーズに、何の躊躇いもなく笑顔で頷いてくれた。
普段と何ら変わりの無い笑顔と雰囲気。
――ただ、そっと交わしたキスだけが、何だか特別で、愛おしむべきものに思えた。
* * *
当然のことながら、まだまだ新米な僕では、家族を養うだけのお金を稼ぐのは無理な話だった。
自分の分だけでも精一杯だというのに、智子と舞羽さんの分まで稼がなければならない。
けど、いくら働いても、それは成らない。
智子がアルバイトをして稼いだお金と、僕の母親と智子の母親からの援助金のおかげで、何とかまかなっているという状態。
そんな状態だったから、結婚式を挙げるなんていうことは、到底無理なことだった。
けど、そんな時に僕と智子を助けてくれた人たちが居た。
――裕樹をはじめとする、僕と智子の学生時代からの友人たちだ。
彼等は、僕と智子には内緒で少しずつお金を出し合ってくれて、小さな挙式場と衣服類などを準備してくれていた。
その話を聞かされたときには、ホントに心底驚いたし、心から喜び、感謝したのを覚えている。
……まぁ、そうは言っても、神父さんも指輪も無い、ホントにアットホームなものだったけど。
それでも、僕と智子にとっては、他のものと比べることなど出来ない、最高の結婚式だった。
――その場に居る全ての人が、本当に心から、僕と智子のことを祝福してくれているということが、ハッキリとわかっていたから。
集合写真に写る皆の姿は、今でもしっかりと思い浮かべることが出来る。
* * *
それから一年近くが過ぎた六月には、第二子の翔羽君が誕生。
そして、舞羽さんが小学校に入学する頃には、何とか独立して、自分の店を持つことが出来ていた。
まだまだ経済的には厳しかったが、共に仕事に精を出してくれる智子の存在が、いつも僕の支えになっていた。
二人だけの新婚生活というものは、結局経験することが出来なかったけど、そんなものより、ずっと価値のある新婚生活だったと、僕は心から自信を持って思っている。
小さいけれど、ちゃんとした自分の花屋を経営することが出来、尚且つ、家族から離れることなく生活することが出来る。
――こんなに素晴らしい新婚生活なんて、他には無いだろう。
当たり前のように智子が隣に居て、当たり前のように智子が幼稚園のお迎えバスが止まる場所へと翔羽君を迎えに行き、当たり前のように智子が翔羽君と共に帰ってきて、当たり前のように学校から舞羽さんが帰ってくる。
そんな当たり前の生活が、何とも心地よく感じ、掛け替えの無い幸せだった。
そして……今までの人生の中で、一番幸せを感じていた時期かもしれない。
* * *
僕が三十三を過ぎた頃、智子は風邪をこじらすことが多くなった。
始めは、仕事のしすぎで身体に障ったんだろうと思っていたけど――
――病院での診断結果は、全くもって、これっぽっちも予想していないものだった。
仕事中、病院に診察を受けに行っている智子から電話がかかってきた。
――一瞬……特に理由があったわけではないけど、何だか物凄く嫌な予感がした。
受話器越しに聞こえてくる智子の声は、何とも弱々しく、震えていた。
そして、僕が聞き取った言葉――
「――――私……白血病……なんだって。……どう……しよう?」
目の前が……真っ暗になった。
――僕が、忘れたくても忘れることの出来ない、呪いのような言葉だ。
『成人T細胞白血病・リンパ腫』
――これが、智子が冒されている病の正式な名称らしい。
慢性型で、すぐに症状が悪化することは無いらしいが、この病気には、あまり良い治療法が無いらしい。
――絶望感。
とにかくそれが、僕の中に渦巻きつづけた。
どうしてなんだ。
僕は、何か悪いことでもしたのか?
何で、智子がこんな目に遭わなければならないんだ!?
もし、神様という存在が実在するなら、今すぐにでも僕の願いを叶えて欲しかった。
僕の――僕の幸せを、どうか……どうか、奪わないで下さい。
無常にも、智子の入院生活が始まり、目覚しい効果の期待は出来ない薬物が、毎日のように智子に投与されていく。
智子の身体は見る見るうちに痩せ細っていったが、瞳の色は失われていなかった。
僕には、何で智子がそんなに力強い眼差しを見せ続けていられるのか、全くわからなかった。
ただわかるのは、智子が精神的に強い人だということ。
僕は……あからさまに精神的なダメージを受け続けているというのに……。
* * *
智子が三十四歳になった頃、担当の医師が、僕に対して一つの宣告をしてきた。
『希望』という、まやかしであっても唯一の『光』であったものすら打ち砕く、禁断の言葉を。
「――残念ですが、智子さんの病状は深刻です。……もって数ヶ月といったところでしょう」
――叫びたかった。
訂正しろと、医師に殴りかかりたいと思うくらいに。
でも……僕は、ただ呆然と、医師が話しているであろう言葉を聞いて――
――いや、それ以降の医師の言葉なんて、耳から耳へと通り抜けていくだけだった。
「――このことを智子さんに、あなた自身が伝えるか私の方からお伝えするかは、後日またお伺いすることにします」
そんな、更なる苦痛を受ける言葉だけが、無常にも僕の耳にしっかりと残っていた。
僕は、智子にはこのことを言うべきではないと考えていた。
――――というか、そんなこと、言えるわけがなかった。
いつも通りに、智子のいる病室に足を踏み入れる。
そう、いつも通り――なつもりだった。
「何か……言われたのね」
――ダメだった。
僕は、不器用だった。
智子は、僕の表情を見ただけで、何か重要なことを宣告されたという事実を見出していたんだ。
……そもそも、隠し通すことなんて、出来やしなかったんだ。
情けなかった。
僕の心は、こんなにもズタズタに引き裂かれているのに、智子は、全てを受けとめる覚悟をしているような、何とも清々しい笑顔を僕に見せている。
僕は智子に――全てを告げた。
* * *
絶望の冬、無色の春と過ぎ、やってきた夏。
店頭では、太陽の日差しをたっぷりと受けるひまわりが、誇らしげに天を見上げていた。
店の奥には、夏休み真っ只中の舞羽さんと翔羽君。そして――細い身体が痛々しい、智子の姿が。
余命が短いことを告げられた智子は、最後の時を家族と共に過ごすことを望んだ。
智子自身が望んだことを、僕や親族たちが拒むはずがない。
智子の退院は、すぐさま決行された。
智子はその姿とは対照的に、何ともいきいきとした表情を見せていた。
身体は蝕まれているはずなのに、僕が店頭から店内に居る智子の方を振り向くたびに見せる微笑は、僕がよく知っている智子そのものだった。
――ただ、その矛盾が、より僕に現状を突き付けているように思えてならなかった。
着実に迫り来るものが、実体化して僕の前に姿を現しているように思えた。
僕は、智子の痩せ細った身体を優しく――でもしっかりと抱きしめた。
――一分でも、一秒でも長く、智子を感じていたかった。
「大丈夫。……まだ、大丈夫だから」
そんな智子の言葉が、智子の身体の現状を物語っていた。
――――もう、涙すら流れなかった。
* * *
――突然……だった。
舞羽さんと翔羽君が寝静まった後の、二人だけの時間。
処方されていた複数の薬を服用している途中――――だった。
――マリオネットの糸が切れたかのように、智子が力無く崩れ落ちたのは。
叫び声もうめき声も聞こえなかった。
聞こえてきたのは、グラスの砕け散る音だけ――
――いや、もう一つ聞こえていた。
まるで鈍器で殴られたような、鈍い音が――――僕の頭の中で。
病院の廊下を、複数の医師と僕……そして、智子を乗せた担架台が走る。
何だか、記憶が……意識が曖昧だった。
救急車のサイレンの音も、医師による飛び交う指示の叫び声も、病院に至るまでの経緯も。
目の前で起きている全てのことが、ただの幻だと思っていた。
――そう、信じたかった。
けど、集中治療室へと続く廊下に差し掛かったときに聞こえてきた声で、僕の意識は一瞬で鮮明になる。
「純羽……君。わた…し……じゅん…は君……の…こと……だい…す・……きだ……よ」
「智子! 智子っ!!」
必死に叫びながら、智子の手をしっかりと握り締める。
「わ…たし……しあ…わ……せだった……よ。あな…た…に…………」
「さと…こ……」
「どう…か……わ…たしの…想い…が……えい…え……んで……ありま…す……よう……に」
――よく、フィクションの世界では、こういう時に今までの思い出がフラッシュバックのように頭の中を流れたりしているけど、そんなこと、全く無かった。
そんな、過去のことを思い出していられるほど、心に余裕なんて無い。
――――まして、『奇跡』なんてもの、起こるはずなかった。
とうに枯れ果てたと思っていた涙が、いつまでも溢れ続けていた。
* * * * *
……結局、その言葉が、最後の智子の言葉となった。
『――どうか、私の想いが永遠でありますように』
智子がどういう想いを込めて、その言葉を残したのか、最近になってようやくわかったような気がする。
ようやく……わかることが出来たような、気がする。
「……父さん」
不意に掛けられた言葉で、僕は長い想起から意識を現実に戻す。
目の前の裕樹の後ろに現れた人物は――
「ま、舞羽さん!? どうしてここに?」
突然の娘の登場に、僕は溜まっていた涙を拭うのも忘れて、驚き叫んでいた。
おかしい。舞羽さんは今日、モデルの仕事でスタジオに出かけると言っていたはずなのに……。
そんな僕の疑問の答えは、舞羽さん本人からではなく、もう一人の人物――変わらず優しい微笑みを見せている裕樹から告げられる。
「……俺が少し前に誘ったんだよ。お前なら、絶対に今日、ここに来ると思ってたからな」
「裕樹……」
「さっき、『子供たちに余計な不安感を与えたくない』って言ってたよな。……お前、ホント昔っから不器用なんだよ。お前がそういう風に思ってること、舞羽ちゃん、だいぶ前から知ってたみたいだぞ。……多分、翔羽君も」
「……えっ?」
裕樹の言葉に呆然としていると、舞羽さんが普段はあまり見せることのない、辛そうな表情で見つめてくる。
「父さん、私……ずっと待ってたんだよ? 父さんが私と翔羽のこと、すごく大事に想ってくれてることわかってたし、それに……ずっと父さんが我慢してることも、わかってた。
だから――――」
――僕は、自分の耳を疑った。
いつも元気いっぱいな舞羽さんの声に、嗚咽が混ざりだしたんだ。
「――だから私、父さんの弱音、聞きたかった! 父さんの辛さ、少しでも和らげたかった!! 父さん……ひどいよ。……私だって、ずっと…ずっと我慢してきたのに! 父さんが不安に思わないように、ずっと……平気なフリ、してきたのに!!」
舞羽さんは、言葉を放ち終えるのと同時に、僕の元へと走り抱きついてきた。
先程までの想起の影響もあるのか、胸ですすり泣く娘の姿が、新婚の頃の智子とだぶって見える。
そっと舞羽さんの肩に腕を回すと、自然と涙が頬を伝いだした。
――もう、随分と流していなかった、心からの嬉し涙だった。
改めて、智子の眠る墓の前に腰を降ろす。
今度は、隣に居る舞羽さんと共に。
智子……聞こえているかい?
……久しぶりだね。
僕は…見ての通り、元気だよ。
今日、久しぶりに昔のことを思い出したよ。
智子と始めて出会った日、智子に告白した日、智子とデートした日々、智子にプロポーズした日、智子との結婚式、舞羽さん・翔羽君が誕生した日、そして、智子がそっちの世界に旅立った日……。
どれも、今でも鮮明に覚えているよ。
嬉しかったこと、楽しかったこと、辛かったこと、哀しかったこと、淋しかったこと……色々、あったよね。
……実はね、僕は弱いから、ずっと過去の嫌な出来事を忘れようとしていたんだ。
そうしないと、自分が壊れてしまうんじゃないかって、思ってたから。
でも……ね、今日から、僕はその考えを改めることにするよ。
――ほら、今日は舞羽さんも智子に会いに来てくれたんだよ。
あっ、裕樹も忘れちゃいけないね。
……聞いてたかもしれないけど、さっき舞羽さんに怒られちゃったよ。
何だか、やっぱり智子に似てるなぁって思った。
――しっかりものだし、智子に良く似て心配性だしね。
ホントに……良く似てるよ。
いつも智子が僕の背中を押してくれてたように、舞羽さんも僕の背中をしっかりと押してくれたから。
智子……僕は、気付けたんだ。舞羽さんのおかげで。
きっと智子は、どんな時でも幸せを感じてくれていたんだよね。
――たとえ病に伏せていたときでも。
きっと、僕が隠し事をしたり、哀しんでいたり、辛く思っていたりすることの方が、よっぽど智子にとっては辛いことだったんだよね。
――――こんなにも自分のことを想ってくれる人がいた僕は、ホントに幸せ者だね。
……ねぇ、智子。
智子がこっちの世界で最後に残していった言葉、覚えているかい?
『――どうか、私の想いが永遠でありますように』
智子がそっちの世界に旅立ってすぐは、やっぱりどうしても淋しかったから、落ちついてその言葉の意味を考えることが出来なかったけど、今は、その言葉の意味がわかるような気がするよ。
多分、智子の願い――僕と舞羽さんと翔羽君、そして僕たちの心の中にいつも居る智子が、幸せに暮らしていくということ――が永遠であって欲しい……っていうことなんじゃないかな?
もし、違ってたらちょっと恥ずかしいな。
……でも、僕はそうであって欲しいと願っているよ。
――いつも、僕たちを見守ってくれて、ホントにありがとう。
今度は、必ず翔羽君も連れてくるよ。
舞羽さんもそうだけど、翔羽君も大きくなったんだよ。
何だか女の子の友達もいっぱい出来て、女性恐怖症も克服傾向にあるみたい。
きっと……智子もビックリすると思うよ。
……楽しみにしててね。
それじゃあ、また今度。
――――愛してるよ。
……ずっと………ずっと。
「それじゃあ……帰りますか」
智子の墓前から、軽快な歩みで離れていく。
その行動には、全くためらいなど無かった。
去年来た時は、淋しさと辛さで中々智子の墓前から離れることが出来なかったのが、嘘みたいだ。
横を向けば裕樹が、そして舞羽さんが居る。
僕には、『想い』を共有出来る人たちが居るんだ。
………うん、大丈夫。
「そういえば舞羽さん、今日はモデルのお仕事があったんじゃないんですか?」
車へと向かう途中、ふと思い出して聞いてみる。
すると、舞羽さんは笑みを浮かべながら返してくる。
「あぁ、あれは嘘よ。う〜そっ♪」
「う、嘘って……ダメですよ、嘘なんか吐いちゃ――」
「あら、どうせ父さんだって、翔羽にはお店で働いてるってことにしてるんでしょ? 人のこと言えないじゃない」
「………は、はは」
……智子、やっぱり舞羽さんは智子に似てるよ。
車に辿り着き、舞羽さんが助手席に乗り込む。
そして、僕も運転席に乗り込――もうとしたとき、川の流れのように緩やかな風が、そっと僕の頬を撫でた。
――何だか、智子が声を掛けてくれているように思えて、思わず墓地の方に視線を向ける。
…………智子。
智子……ゴメン。……やっぱり、僕はまだ智子が居ないと淋しいし、辛く思っちゃうよ。
もちろん舞羽さんと翔羽君の存在は、間違いなく僕の心の支えになってるよ。
でも…それでも……やっぱり智子じゃないと……。
……智子に、まだまだ辛い思いをさせてしまうかもしれない。
だから……だから、お願いがあるんだ。
どうか、これからも僕たちの心の中で、僕たちを見守り続けてほしい。
そして、僕に智子の存在を常に感じさせてほしいんだ。
『想い』を込めていると、再び、頬を撫でる緩やかな風が。
――柔らかく清らかで、優しく包み込んでくれるような爽やかな風。
・…………ありがとう。
僕は、視線を車に戻し、手早く運転席に乗りこむ。
そしてウィンドウ越しに、再度墓地の方を眺める。
智子が想いに答えてくれたんだから、僕の想いは……きっと智子に届いているんだよな。
だったら、もう一度……もう一つ、僕の想いが届いてほしい。
僕が智子に送る、これからずっと忘れることのないであろう魔法の言葉を。
『――どうか、僕の想いが永遠でありますように』
===あとがき=====
どうも、こん○○は(もしくは、おはようございます)
あなただけの、深那 優です。
(FMラジオのパーソナリティの人がよく言うセリフです/笑)
えっと、初の番外編、いかがだったでしょうか。
純羽と智子の、出会いから現在までのお話。
本編の中では、第19話〜第20話にあたる十月十八日の話で、文中にもあった通り、翔羽君は純羽が家の前の花屋のスペースで仕事をしていると思っています(笑)
実はこの番外編、個人的には色々な試みを盛り込んだつもりです。
例えば、いつもより多用した改行。
沈黙の有効利用。
純羽の想起シーンの中で、あえて、わざと少ない文章で止めている部分。
……などなど。
けして怠けて文章を少なくしたとか、そういうわけではありませんよ〜(笑)
この番外編は、私にとって、『らぶぱ』の中での一つの集大成と成り得るものになりました。
あなたに感じとってもらいたい、純羽や智子や舞羽や裕樹の想いが、沢山込められています。
もちろん、直接文章で現していない比喩、隠喩的な部分でも。
まだまだ私の文章力は微々たるものだから、全てを感じとってもらうことは難しいかもしれない。
……でも、たとえ少しでもいいから、感じ取ってもらえる部分があれば、本当に嬉しく思います。
きっと、登場人物たちも、喜んでくれると思います。
これから『らぶぱ』の話を書いていく上で、智子が登場する話はなかなか無いかもしれませんが、たびたび登場する純羽の心の中には、いつでも智子の存在があるということを感じながら、これからも『らぶぱ』を楽しんでいただけると、とても嬉しく思います。
2004/08/22 17:08
昨日から徹夜で書いてたから眠い……な、状態にて。