第30話〜feat. ASUKA TAKATO #5 [行方を決すは×××]〜 |
冷静に考えれば、今、俺がおかれている状況は、これまでの高遠さんとの接触履歴の中でもある意味一番異質なものだ。
もちろん、学校の屋上で喫煙現場を目の当たりにしたことも、ホテルの一室で危なっかしい一夜を過ごしたことも、十分に異質なものではあるけど、それらとは異なる、もっと心の深い部分の異質さ。
どう表現すればいいんだろう。
難しいけれど……そう、言葉で表現するなら、直感的なものではなくて、じんわりと滲むように広がってくる感じのもの。
――そんな異質な空気をじわじわと感じながら、俺は高遠さんの話を聞いている。
「アイツ――あの無責任オヤジにはな、子供が三人いるんだよ。……もちろん、私も含めてな」
「へぇ、高遠さんって兄弟いるんだ。全然そんな話聞かないから、知らなかったよ」
俺は特に感情を含ませることなく答えるが、高遠さんはその表情をより深いものにする。
「……あぁ、いるんだよ。――腹違いの妹と弟が……な」
「えっ……腹違…い?」
突然の告白は、俺の思考力を十分に激減させうるものだった。
――腹違い……つまり、高遠さんの母親じゃない人から生まれた妹・弟だってこと…だよな?
という風に、当然のことですら疑問系になってしまうくらいに。
高遠さんは俺の表情から動揺を感じ取っているようだったが、十分それは予想済みなようで、特に驚くこともなく話を続ける。
「アイツはとにかく女癖が悪いんだよ。いや、もう癖なんてレベルじゃないな。
……橘は知ってるはずだけど、うちは酒屋でさ。元々はじいちゃん――もちろん、母方のな――が始めた商売を母さんが手伝うようになって、じいちゃんが働けなくなった後は、一人で頑張ってたらしい。そんな母さんは、いつどこでかは知らないけどアイツと出会って、そして結婚した。その後しばらくして生まれたのが、この私。
――と、ここまでは別におかしなところは無いんだけどな。
まぁ、私が覚えてる範囲でのことだけど、私が小学校低学年くらいのとき、アイツは酒屋の仕事をするでもなく、毎日のようにどこかに出かけていたんだ。もちろん、当時の私にはアイツの行動理由なんてサッパリわかってなかったけどな。
私が始めて『異変』ってものを意識したのは、中学生になってすぐくらいの頃だったよ。……今の私からは考えられないかもしれないけど、その頃はわりと真面目で部活もやってたんだ。その部活で帰りが遅くなることが多かったんだけど、家に着いてドアを開けようとすると、いつも中から何か叫ぶ声が聞こえてきたんだ。中にいる二人が、怒鳴りあう声。――どう考えても、『普通』な状態とは思えなかったよ。でも、私がドアを開けると、さっきまでの怒声が嘘のように静まり返ってるんだ。そして、まるで何事も無かったことを主張するみたいな二人の笑顔……。それからしばらくして……いや、大した月日は経ってなかったかな。……とにかく、私は知ったんだ。
――――アイツの、秘密をな」
ゴクッという生唾を飲み込む音が、今、高遠さんから物凄いことを伝えられているのが現実であるということを嫌が応にも認識させる。
そして、高遠さんが言っていることが、紛れも無い真実なのだろうということも。
「ホントに偶然のことだったんだよ。部活帰りにたまたま近所の公園に立ち寄ったら……アイツと、全く知らない女が口論しているところに出くわしたんだ。――その口論の内容は、今でも嫌になるくらいにしっかりと頭の中に残ってるよ」
高遠さんは苦々しい表情を満面に浮かべ、一度言葉を切った。
俺はただ、黙って高遠さんが再び言葉を紡ぎだすのを待つことしかできない。
そして、高遠さんは軽く深呼吸をした後、再び語り始める。
「最初にしっかりと私の耳に入り込んできたのは、女の懇願するような叫び声だったよ。
『妊娠したのよ!? あなたの子供を!!』
――っていうね。
ビックリしたさ。見ず知らずの女が、自分の父親に向かってこんなことを叫んでる。……理解することなんかできなかったさ。
……でもな、もっと理解できなかったのは、その自分の父親の返答の方だったよ。
何て言ったと思う? もう……何度改めて考えてみても、理解できない言葉だよ……。
『わかってるさ。だから、生むも生まないも君の自由だ。もし生む気なら、養育費は負担するよ』
――平然と、何の悪気も無く言ってのけてたよ。ホントに、信じられなかった。
その言葉の意味ももちろんそうだけど、それよりも、私にとても優しくしてくれてたオヤジが、あんなヤツだったってことが信じられなかった……」
高遠さんの表情は、話が進んでいくにつれて曇っていき、そしてうつむいていく。
「ホントはすぐにでも飛び出していって、オヤジを突き詰めたかった。……でも、その時の私にはそうする力も度胸も無かったんだ。だから私は、ただその場から逃げ出すことしかできなかった。
家に帰ったらすでにオヤジは戻ってて、何の変わりも無くいつも通りに過ごしてた。とてもオヤジと向き合うことなんてできなくて、逃げるように自分の部屋に駆け込んだのを覚えてるよ。もちろん、母さんにこのことを話すなんて、それこそできやしなかった。部屋の中で散々考えたよ。遅く帰ってきた時に中から聞こえてきてた叫び声は、コレ関係のことなんだろうなとか、もしこのことを母さんが知ったらどうなっちゃうんだろうとかね。
……でも、結局そんなこと考える必要は無かった。――何日もしないうちに、母さんはこの事実を知ってしまったんだ。
もう、二人は別れるものだと思ってたし、覚悟も自分なりにしてたよ。……でも、母さんは物凄く怒りはしたけど、一言も『離婚』とか『別れる』とかいう言葉は言わなかった。正直、その時は心底ホッとしたよ。
……でも、数日後に偶然母さんが大泣きしてるのを見て、そしてその間全く反省の色を見せることが無かったオヤジの姿を見て、私は怒りを覚えた。
あのオヤジを憎むようになったのは、その時からだよ、きっと。でも、同時に何で母さんは離婚しようとしないのか――それが不思議でならなかった。あんなにもヒドいヤツなのに。
それから、私は強くなろうと決めたんだ。あの最低なオヤジに一発殴ることができるくらいにね。――そうでもしないと、私の中で生まれた憎しみに支配されてしまうんじゃないか。そう思わざるを得ないくらいに、憎しみは絶え間なく湧き出してきたよ。
そして……ちょうど、あと少しで中三って頃だったかな。ついに私はあの日の出来事のことを問い詰めたんだ。母さんがいないのを見計らってね。さすがに驚いてたな。私はあのことを知ってからも、それまで通り優しい態度で接してたから。
でも――その驚きは一瞬だった。動揺なんてものは微塵も感じさせない笑みを、アイツは当然のように向けてきたよ。それどころか、アイツは逆に私のことを驚かしにかかってきた。私はそれに、見事にかかっちまったよ。
『彼女、もう子供を出産してるんだ。――明日香の弟。そして妹。……可愛らしい双子だったよ』
――もう、どう表現したら良いのかわからない気持ちでいっぱいになったよ。憎しみだけじゃない。驚きだけでもない。苦しみだってある。どこかで呆れているような気もする。……でも、少なくとも嬉しい気持ちはこれっぽっちも無かった。
アイツは私の表情に満足してる様子だった。余裕を全身で表現しながら、私の頭を撫でてきやがった。
私はまだまだ弱かったんだ。だから……だからまだアイツにかなわなかったんだ。そして、それは今でも続いてる――
――――と、おおまかにはこんな感じ。アイツはそういうヤツなんだよ」
最後は少し間をおいて、高遠さんはその話を切った。
聞いた感想……それは、まだ俺の中でまとまらない。
そんな簡単にまとまるような話では、けしてない。
だって、そうだろ? こんな話、仮想のものであればいくらでも聞くことができるし、全く知らない人物の体験であれば、TVとかでたまに見ることもできる。
でも、今聞いたのは同じクラスの友達の実体験。
けして仮想のものなんかじゃないんだ。
「……………」
だからだろう。放つべき言葉がみつからない。
「……悪いな。橘はべつにこんな話を聞きに来たわけじゃないのに」
「いや、それはべつにかまわないんだけど……その……何でこの話、俺に話してくれたんだ?」
俺が言葉に合わせるように聞くと、高遠さんは何だか少し清々しさを感じさせる表情を見せた。
「……何でだろうな。この話、誰にも話したことなかったのに。……まぁ、橘はアイツと違って、見た目の……偽善の優しさじゃない、本当の意味での優しさで私に接してくれてるって思ったからかもな」
高遠さんは言った直後、随分とこっ恥ずかしいことを口走ってしまったと感じたらしく、少し焦ったように身体を縮こませる。
そして、それを伝えられた俺も、連鎖反応的にそれを意識してしまう。
「……………」
「……………」
自然と沈黙状態になってしまうのは、もう必然的なことだ。
……とはいっても、この沈黙状態は今の俺にとって、かなりツラい。
「そ、その、高遠さんは弟と妹に会ったことあるの?」
何とか新たな会話を成立させようと、ちょっと危険な感じもしたけどそんな話題をふってみる。
それを聞いた高遠さんは、気持ち寂しそうな表情を見せる。
「あるわけないだろ。……会えるわけないさ。もちろん調べようとすれば、どこに住んでるのかとか、簡単に調べられるだろうけど……会って、何を話すのさ。『私はあんたたちのお姉さんだよ』とでも言うのか?」
「ま、まぁ……そうだよな」
「それに、二人の母親に会わせる顔が無いよ。どう考えても、アイツの被害者なんだから。そんな人に、アイツと結婚した母さんから生まれた私が会ったりしたら、もっと悲惨な状況になりかねない。……絶対に無理だろ」
――こんなにも沈痛な面持ちをした高遠さんを見たのは始めてだ。
「そ、そっか。……でも、会ってみたいとは思ってるの?」
「……まぁ、どちらかといえば会ってみたいかな。二人の母親は、少なくともアイツとは結婚してないわけだし、他の人と結婚ってのもまず無いと思う。アイツは養育費は出すとか言ってたけど、うちにはそんな余裕無いハズだし……。いったいどんな生活をしてるのかは気になるな」
何だかその言葉の流れが、まるで高遠さんが火の点いてないろうそくに一個一個火を点ける作業をしているように感じられる。
暗闇の先へと続く道に沿って並べられた、まだ出来て間もないろうそくたちに。
――俺は、その道先の案内役になれるかもしれない。
何故だかその時、いたって自然にそう感じたんだ。
「その……俺がこんな問題に口出ししていいのかわからないけど、父親を憎み続けるくらいなら、一度その家族に会いに行ってみた方が良いと思うよ。だってさ、少なくともその母親には選択肢があったはずだろ? 赤ちゃんを産むか産まないか。……で、その選択肢の中で母親は産む方を選んだ。だったら、赤ちゃんを産んだことは後悔してないはず。それに、もし仮に母親が高遠さんのことを憎んだとしても、それは筋違いなことだろ? 高遠さんに憎まれる理由なんてないよ」
――だから、ある程度の自信を持ってそう答えたんだ。
少なくとも、このままでいるよりは良い方向に向かうはずだろう……って。
……でも、高遠さんは俺の気持ちとは裏腹な言葉を返してきた。
「…………ハァ、随分と簡単に言ってくれるな」
「い、いや…その……」
俺はかなり焦っていた。
もしかしたら、とんでもない地雷を踏んでしまったのかも……。
そう思ったら、もう何を話せば良いのかわからなくなっちまったんだ。
けど――――
「……でも……そう、簡単なことなのかもな。ちょっと動けば、すぐにでも会えそうだし。私の決意さえ固まっていれば、それだけで。……そうなんだよ…な」
――――高遠さんは、微笑んでいた。
何の意識もせず、ふと滲み出てきたような微笑みを。
そして――
「…………今の表情」
――――俺は、呆然と呟いてしまっていた……らしい。
そう、ホントに自分でも言ったのか言ってないのか確信できないくらいに、知らぬ間にポロッと口からこぼれていた。
「えっ?」
俺は、その言葉の意味を理解していないらしい高遠さんに、恥ずかしさを抑えながら話す。
「あっ、いや、何か今の表情、すごく良かったから……。いつものキツい表情より……」
……が、その努力もむなしく、高遠さんは表情を崩していた。
熱くなっていた頭が、急激に冷めていく。
「い、いや、別に深い意味は無いんだぞ! ただ何となくそう思っただけで――」
慌てて弁解にかかろうとしたけど……どうやらそれは必要の無いことだったみたいだ。
「……ふふ、別に怒っちゃいないさ。ただ、橘の話を聞いてたら、もう疲れたって思っただけ。……あ、別に橘の話を聞くのに疲れたってわけじゃないぞ。そうじゃなくて……いろんな表情を見せるための、いろんな種類の仮面を付け替えることにな。
多分、どれも強がるために繕っただけのもの。――何か橘は、私の仮面をいつの間にかどんどん剥ぎ取ってるみたいだな」
「そう……なのか?」
「多分な。……ま、そうは言っても私自身、どれが仮面でどれが素顔なのかわからなくなっちまってるけどな」
「えっ?」
高遠さんの微妙な発言と、それに合わせたように微妙な表情を見て、俺はあのシーンを脳裏に浮かべてしまった。
――『ミミちゃん』として、ホテルの前にいた高遠さんの姿。そして、一緒に入ったホテルの一室。
もしも、あの高遠さんが素顔だとしたら…………。
……と、そんなことを考えてるのが伝わってしまったのか、高遠さんは苦笑しながら、
「……少なくとも、援交の時のは完全に仮面だけど」
そう言って、俺をホッとさせてくれる。
でも……もしあれが素顔だったら、またすぐにあんな状態に持ち込まれるんだろうなぁ。
「……ん? 何か残念そうな顔だな。……ふふ、なんなら今からでも遅くは無いよ? ちょうどベッドもあるし」
「い、いや! 結構ですっ!!」
俺は慌てて返すが、
「またまたぁ、そんな嘘ついちゃダ〜メッ♪」
高遠さんの表情が瞬時に切り替わり、まるでオクターブ上昇したような声が容赦なく向けられる。
こ、これは……明らかに『ミミちゃん』モードだ。
「ち、違うって!!」
自然と身体を離しにかかるが、ミミちゃんモードの高遠さんはそれを許してはくれない。
ケガをしている右腕をかばいながらも、左手で、室内であるにもかかわらず脱ぐのを忘れていたコートを掴み、じわりと近づいてくる――が、
「ほら、逃げないで……痛っ!!」
――俺は物凄く焦っていた。
俺のコートを引っ張る力が抜けたかと思ったら、高遠さんは左手で自らの右腕を押さえていたんだ。
その表情にも、苦痛が浮かんでいる。
「!! 大丈夫か!?」
慌ててそう叫びながら、高遠さんに向き直る。
――――しかし、
「つっかま〜えたっ!」
「ちょ、ちょっと!!」
高遠さんの表情は、瞬時に笑顔へと戻っていた。
苦痛なんてものは微塵も窺えないってことは……どうやら、俺はまんまと高遠さんの策にはまってしまったらしい。
その考えは正しかったようで、高遠さんはしめたとばかりに左腕を俺の肩に絡め――
「さ〜て、どうしちゃおっかなぁ」
――そしてそのまま、どこから湧いてくるのか疑問に感じてしまうくらいの力で俺をベッドに横たわらせる。
高遠さんの左腕は、俺の枕となる。つまりは、横になった俺の目の前で、高遠さんもこちらを向いて横たわっている。
高遠さんの左腕がしっかりと俺の頭部を押さえていて、逃げようにも逃げられる状態ではない。
「ま、待てって! こ、ここ病院なんだぞ!?」
「ん? じゃあ病院じゃなければ良いの?」
「そうじゃなくって!!」
不安感に苛立ちが少し加わって、俺は気持ちを吐き出す。
すると、高遠さんのどこか試すような表情が、これまた瞬時に落ち着いたものに変わる。
自然と、俺の火照っていた顔も冷めてくる。
「ふふ、ホントに橘はおかしなヤツだな。普通の男なら飛び掛ってきてもおかしくない状況なのに」
高遠さんは、以前ホテルで言った言葉に似たような言葉を話してきた。
けれど、表情はあの時のものとは違う。
苛立ちの表情ではなく、柔らかな微笑み。
「いや……それは多分、高遠さんが勘違いしてるだけだと思うけど」
「そうかな? たいていのオジサマは当然のように迫ってきたけど」
「そ、それは全然状況が違うって。ってか、そのオジサマたちと一緒にされるのはちょっとヒドいぞ」
俺は高遠さんの言動と表情で安心感を覚えていた。
確かにベッド上で真横に高遠さんという状況ではあるが、ホテルの時とは明らかに違う雰囲気。
だから、自然と放つ言葉もラフなものになっていた。
しかし、その安心感も束の間、
「……そりゃそうか。……じゃあ、私から迫ってみる?」
何て冗談混じりっぽく言いながら、高遠さんは身体を反転させて、俺に覆いかぶさってきたんだ。
高遠さんは右腕を使うことができないから、支えるものなどなく、ただ重力にまかせて俺の身体に密着する。
……さすがに、全身を悪寒が走る。
「え、遠慮しとくよ! ってか、もう十分に迫ってきてるじゃないか!!」
俺は何とか高遠さんから逃れようと、高遠さんの右腕に気をつけながら、身体を高遠さんごと反転させた。
ようは、高遠さんと上下入れ替わったって感じ。
当然、俺は高遠さんと違って右腕も自由に使うことができるから、いくらでも身体を離すことができる。
早速、両腕に力を入れて、この悪寒から抜け出そうと――――
「翔羽〜! お弁当買ってきた……って、何やってるのよアンタは!!」
――とした時、タイミング悪く病室のドアが開かれた。
そこから顔を出したのは、当然姉貴だ。
姉貴はベッド上の俺と高遠さんの姿を見ると、厳しい表情で思いっきり叫んでいた。
「えっ? あ、いや、これはその……」
いきなりのご登場であからさまに動揺した俺は、姉貴と高遠さんを交互に見ながら何とか状況を説明しようとするが、全然頭が回らない。
……回るはずがない。
姉貴は言葉に詰まっている俺に、更に追い討ちをかけるように畳み掛ける。
「高遠ちゃんはケガしてるのよ!? プロレスごっこなんてしてたら、ケガが悪化しちゃうかもしれないじゃない!!」
「…………は?」
――けど、姉貴が放った言葉はそんな意味不明な言葉。
いったいこの状態をどう解釈すれば、『プロレスごっこ』なんていう単語が出てくるんだか。
そんな俺の心境になど全く気づいていないであろう姉貴は、相変わらず強い口調で言葉を続ける。
「『は?』じゃないわよ! やるなら高遠ちゃんのケガが治ってからにしなさい。そりゃ、確かにベッドにプロレスごっこは付き物だと思うけど、時と場合を考えてよね!!」
「…ふ……ふふ……あはははは」
と、突然高遠さんが、俺の真下で声を出して笑い出した。
左手で口元を押さえていても、その声はしっかりと漏れている。
「ん? どうしたの高遠ちゃん?」
「あはは……いや、何でもないです。……じゃ、『プロレスごっこ』はまたそのうちってことにしとくか。……なっ、橘」
「……ハ、ハハ…そうだね」
何だかもう、姉貴の言動を理解しようとすることに頭を使うのがとっても無意味なことに感じてしまい、俺は高遠さんの言葉に合わせるように頷いた。
どうせ、理解することなんてできなそうだし。
高遠さんの言葉で落ち着いたのか、姉貴は表情を柔らかいものに。
「……ま、とりあえずそれは置いといて、お弁当食べよ〜よ! もうお腹すいちゃってしかたないっての。……あ、高遠ちゃんの分も買ってきたんだけど、食べても問題無いんだよね?」
「あ、はい。多分大丈夫だと思います」
「じゃ、皆で食べよ! ちょっと待ってて、お父さん呼んでくるから」
姉貴はそう言うと、笑みを振りまきながら病室を出て行った。
「……な、何だか嵐でも通り過ぎてったみたいだったな。……それにしても、プロレスごっこって」
姉貴というつむじ風が通り過ぎ、高遠さんの真上という危険な体勢から逃れた俺は、素直な感想を漏らす。
けど、高遠さんの考えは俺のものとは違っていた。
「ん? 橘は気付かなかったのか? あれはわざとだよ。多分、先輩は私が橘に迫ってたことに感づいてて、それであえて『プロレスごっこ』だなんて言ったんだろ。……私に気を使って」
「そ、そうなの……か?」
「橘ってそういうのあまり気付かないんだな。人のことは割りと気付いてるみたいなのに。……ま、近すぎる存在だと逆に気付かないのかもな」
「はぁ、そういうものなのか?」
「……ま、多分な」
高遠さんはおどけたようにそう言うと、スッと起き上がってベッドの端に座り込んだ。
「お待たせ〜!」
「すみませんね、待たせちゃって。……さ、早速ご飯にしましょう」
しばらくすると、姉貴と親父が揃って病室に入ってきた。
姉貴の手には、弁当が入っているであろう大き目のビニール袋がしっかりと握られている。
病室の脇に設置されている荷物置きらしき台に、四種の弁当・飲み物が並ぶ。
そして、それぞれが好みのものを選ぼうとしていたとき、高遠さんが控えめに、確かめるように親父に向かって呟いた。
「……あの、アイツ――オヤジは?」
「あぁ、つい先程帰られましたよ。お話をさせてもらってたので、随分と時間を取らせてしまいましたけど。お弁当は断られたので買ってません。
――だから、安心して食べてください」
親父の口調は、何か含みを持ったもののように感じられた。
それに、その最後の言葉……。
「ん? どういう――」
気になって親父にその意味を聞こうと声を発したが、それを遮るように高遠さんの鋭い声が。
「――――どこまで話したんですか?」
まるで窓が開いて冷たい風が入り込んだかのように、室内の空気が変化する。
親父は、表情は変えず、ただ高遠さんの表情を確認するように、ゆっくりと語り始めた。
「あなたに何にも言わないで聞いてしまったのは謝ります。……でも、放っておけなかったんですよ。あなたは大事な息子の友達ですからね」
「何とも……思わなかったんですか?」
高遠さんが口にした疑問。
けど、親父はそれに対しての答えではなく、別の話題を口にする。
「……そうそう、もう一つあなたに謝らないといけないことがあります」
「えっ?」
「――多分、あなたよりも先に、手を上げてしまいました。思いっきりね」
「……………」
高遠さんは親父の言葉に、目を見開いて驚いていた。
そして、俺も同じく……高遠さんの驚きとは別質のものかもしれないけど……とにかく、驚いていた。
手を上げた? 手を上げたって、殴ったってことだよな? あの……親父が?
そう、まさに俺にとっては信じられないことだった。
っていうか、親父が人を殴るという構図自体、全く浮かんでこない。
でも、俺と高遠さんとは違って、姉貴はそれほど驚いている様子はなかった。
親父が人を殴ったという話を聞いて何で驚かないのか、姉貴の心境が気になったけど、姉貴の心境を見透かせるほど、俺にそういった技量は無い。
親父は場の空気を感じ取ったのか、小さく咳払いをすると、
「さっ、この話はもう終わりにして、とにかく食べましょう。せっかく舞羽さんが買ってきてくれたんですから、冷めないうちに」
そう言ってその話を切った。
「そうだよっ! ほらっ!!」
姉貴も合わせるように言って、自らの弁当を見定めにかかる。
高遠さんは、どこか腑に落ちないような表情を見せていたけど、今何をしたってどうにもならないと感じたのか、小さくため息を吐きながら姉貴の横に並んで弁当を取る。
俺も、高遠さんにならうことにした。
とりあえずは、高遠さんも無事だったし、余計なことを考えて心労の元を増やす必要は無い。
全員弁当と飲み物を選び終えると親父が、
「それでは……」
という掛け声を。
これは、うちの食卓では恒例のことだ。
親父の声を合図に、皆で声を合わせる。
『いっただっき――――』
……しかし、そんなことを高遠さんが知っているはずもなく、ただ「えっ?」という表情で俺たちを見回す。
「ダメですよ。皆で食べるんですから、あなたもちゃんと言ってください」
けど、親父がそう言うと、まるで抑えきれずに滲み出たような笑みを、高遠さんが浮かべた。
高遠さんが、だ。
そりゃ、笑っている姿は何度か見ているけど、こういう笑みは初めて。
本当に、心の底から笑いが溢れている感じ。
いったい何が高遠さんにそうさせるのかはわからなかったけど、見ていて嬉しく思える事実であることは確か。
自然と俺の頬も緩む。
親父が小さく頷いて、
「……それじゃあ改めて」
と、再び合図を送る。
――今度はきっと、イキが合う。
『いっただっきま〜すっ!!』
――――上手く声が合った。
たったそれだけのことではあったけど、それが何だか、とっても嬉しいことに思えた。
あの日から二日後。
俺はいつもより早く登校していた。
それが何故かと言われれば、それには二つの理由がある。
まず一つは、日奈子や由紀や泉川や森野さんに、教室に入った瞬間に会うっていうことが、とても危険なことに感じたということ。
きっと、すぐに動揺しちまうと思うし。
もちろん、これから遅くても数十分すれば、嫌でも会うことになるんだけど、それでも間が有るのと無いのではだいぶ違う。
そして二つ目。
それは、何気に普段から登校が早いらしい高遠さんの様子を、高遠さんが他の人たちに囲まれる前に確認したかったから。
二日前に高遠さんが言ったことが確かであれば、腕の包帯はまだ取れていないかもしれないけど、普通に登校できる状態なはず。
きっと高遠さんが包帯を巻いているのを見たクラスメイトの中の何人かは高遠さんの周りに陣取るだろうから、その前に。
誰も居ない教室の中、自分の席に座ってじっと待っていると、予定通りに高遠さんが姿を現した。
「よぅ」
右腕の包帯は取れていなかったけど、全く辛そうな感じには見えない。
そっけない言葉を俺に向けて、自らの席に座る。
俺はスッと立ち上がり、高遠さんの席へと向かった。
「おはよう。もう来ても大丈夫なんだな」
「あぁ。たかがヒビだし、放っておきゃ治るもんさ」
「そっか。……でも、ホントに大したことが無くて良かったよ」
それは、ケガに対する意味だけではない。
高遠さんのお父さんのこと……帰宅したあと何かあったんじゃないかとか、実は結構気になってたんだ。
でも、そんな様子も全くうかがえなかった。
「ふふ、ホントに橘は心配しすぎなんだよ」
「はは、そうかな」
高遠さんの笑みに、思わずつられて顔が緩む……が――
「ま、これでもう少しすればケガも完治して、あの『プロレスごっこ』の続きができるわけだ」
あの単語が現れた瞬間、俺の表情は崩れた。
いったいどういうつもりなんだよ。
プロレスごっこの続きって……どういうことだ?
「な、何を言ってるんだよ。そんな――」
焦りながら言葉を返そうとした、その時、
「え、衛生兵の橘っ! 至急、至急手当てを……」
……よりにもよって、誠人が教室の中に入ってきた。
声だけ聞こえたときはうんざり、げんなりしたけど、誠人の顔を見たら、そんなことも言ってられない状態だということが発覚する。
「お、おぃ、どうしたんだ? すっげぇ顔腫れてるぞ!?」
そう、ホントに見事に腫れていた。
両側の頬を中心に、まるでおたふく風邪みたいに膨れ上がっている。
誠人は見るからに痛そうな頬を手で押さえながら、少し気持ち悪いが瞳を潤ませて訴えかけてきた。
「よ、よくぞ聞いてくれた! 実はだなぁ、俺がお前に、藤谷日奈子嬢と貴島由紀嬢と泉川香織嬢と森野愛嬢がお前のことを好いているって伝えたことが当の本人たちにバレたらしく、泉川嬢に思いっきり何発も往復ビンタを食らわされたというわけなのだ。おかげでこの有様……どうしてくれるんだ、全く……」
「……………」
まぁ、誠人が言った言葉の内容は良くわかった。
最後の方が逆ギレっぽかったのは、まぁともかくとして――
「――へぇ……なるほどねぇ」
高遠さんが隣で片肘をつきながら頷いている。
「……殴っていいかなぁ、コイツ」
俺が誠人の方を向くことなく、低く重い声で高遠さんに告げると、
「ご自由に」
と、期待通りの答えが返ってきた。
そぅ、期待通りだ。
「お、おぃ、何なんだそのイキの合い具合は!?」
「問答無用っ!!」
俺は誠人に向かって両腕を伸ばすと、思いっきりチョークスリーパーをかます。
もちろん、容赦は無しだ。
「おぃ! やめろ! やめろと言っている!!」
「うるせ〜!」
まぁ、実際に殴ってはいないだけありがたいと思ってもらいたい。
これくらいのことをされるくらいのことを、アイツは言ったんだから。
よりにもよって、高遠さんの目の前で。
しかも、他のクラスメイトも、少ないが数人いるし。
十分に苦しめ終えて首から腕を離すと、誠人はゲホゲホ言いながら教室から走り去っていった。
「ハァ、ハァ……ったく! なに考えてるんだよ誠人のやつ!!」
俺が肩で息をしながらそいう吐き捨てると、隣でそれを聞いた高遠さんが笑いながら話し出す。
「ハハハ、ホントだな。あの調子じゃあ、あっという間に広まっていくんじゃないか? ……にしても、随分と好かれてるんだな、橘は。……ま、薄々感づいてはいたけど」
高遠さんの言葉で、俺はだらっと肩を落とす。
そして、一気に気持ちが落ち込んでいく。
「……ハァ、俺ってやっぱり相当鈍感なのかな?」
「ま、そうだろうな。……少なくとも、そういった事に関しては。他の事にはむしろ鋭そうなんだけどなぁ」
「もう、よくわからないんだよ。それを知ったところで、俺はいったい何をすればいいのか。下手なことして取り返しのつかない結果になっちまうのは絶対に御免だし……」
気落ちしているせいなのか、自然にそんな本音が口から漏れてくる。
皆の気持ちはもちろん嬉しい。そう、思っているはずだ。
でも、その気持ちに対してどういう行動を起こせばいいのか、それが俺にはわからない。
言ったとおり、これまでの関係が崩れてしまう結果になるのだけは嫌だから。
せっかくできた友達を――
「……いいんじゃないの? そんなに深く考えなくたって」
――ちょっと、いや、かなり拍子抜けした。
正直、高遠さんから俺にとってキツい言葉をかけられると思っていたのに、実際にかけられたのはそんな言葉。
高遠さんは微笑みながら、気恥ずかしさなど微塵も見せずに言葉を続ける。
「ようするに、橘にはまだ経験が足りないんだよ。こういう時にはどういう気持ちで、どういう行動を起こせばいいのか。体験したことが無いからわからないだけだ。……ま、あまり人のことは言えないけどな」
「そう……かもな」
何だか妙に納得してしまった。
相手が高遠さんだから、尚更そうなのかもしれない。
俺がうつむいて物思いにふけっていると、
「お? 何だ、やっぱり体験したこと無かったのか。カマかけてみただけなのに、素直に答えてくれちゃって。……ま、そうだよなぁ。ホテルの時のあの態度を見たとき、ほとんど確信持ったし」
高遠さんはそう言って俺の顔を強制的に持ち上げる。
でも、高遠さんの表情は相変わらずの笑顔で……。
「…………ハァ」
つい、そんなため息を吐いてしまう。
それをどう解釈したのか、高遠さんはゆっくりと立ち上がり、俺の肩をポンと叩いて告げる。
「ま、気が向いたら橘の経験値、上げてやるよ」
「は?」
「いろいろ教えてやるってことだよ」
「いろいろ……ねぇ」
何だか嫌でも様々な可能性を想像してしまい、言いながら視線を逸らす――と、
「あ……」
あの四人が……居た。
「あ、あの……橘……」
由紀がそう呟きながら、恐る恐るといった感じに近づいてくる。
…………けど、
「……………」
「……………」
俺も、由紀も、日奈子も、泉川も、森野さんも、揃って声を出せない。
皆、俺が事実を知ったということを知っている状態。
そんな状態で、そのことを意識しないでいられるわけがない。
そう。そんなわけないじゃないか……。
「……橘、カバン持て」
ふと、ただうつむいている俺に、高遠さんが囁きかけてきた。
「え?」
意味がわからずそう返すけど、
「いいから」
小さくても鋭い声ですぐに制される。
「お、おぅ」
とりあえず言われたとおりにカバンを自席にとりに行き、そして高遠さんの席の前まで戻ってくると、いきなり――
「んじゃ、悪いけどちょっと用事があるから、コイツ借りてくな」
高遠さんはそう言うと、問答無用とばかりに俺を引っ張って教室を出て行こうとする。
あまりにもいきなりな展開に、思考が現状に追いつかない。
「え? ちょ、ちょっと高遠さん!?」
そんな感じの、泉川の叫び声を聞き取ったのを最後に、俺と高遠さんは教室から脱出。
俺の方を振り向くことなく、ただ俺を引っ張って真っ直ぐ廊下を突き進む高遠さん。
高遠さんのなびく長髪が、微妙に肌に当たってくすぐったい。
「お、おぃ」
いつまで経っても歩き、引っ張り続ける高遠さんに、我慢しきれず呟くと、
「……ハハ、たまには逃げるのも楽しいもんだな」
サラッと長髪を舞わせながら、高遠さんはクルッと振り向いて笑みを見せていた。
――何だかこう……その、今までで一番、俺にとっての年相応に見える高遠さんの姿。
「へ?」
その高遠さんの言葉に、何か深い意味があるような気がして、思わず口から漏れるが、
「何でもねぇよ!」
高遠さんはそう言うと、再び俺を引っ張り出した。
今度は、歩きじゃなくて小走りに。
目指す先は……きっと屋上だろう。
今通ってるこのルートから考えれば間違いない。
つまりは……サボり決定ってこと。
まぁ、それもいいかなぁって思う。
とりあえず、教室に居ても気まずいだけだし、何より高遠さんが楽しそうだし。
――そんなことを思っている間に、予想通りに屋上へ到着。
高遠さんは風力観測用の建物の壁に寄りかかると、ようやく俺の手を開放した。
空は快晴。けど風が強くて肌寒い。
そんな中でも、会話はちゃんと生まれる。
「……なぁ橘」
「ん?」
「今度……そのうち、妹と弟に会いに行ってみようと思う」
高遠さんの表情は真剣なものだった。
とはいってもキツい感じのものではなく、優しさを帯びたもの。
「……そっか」
きっと、高遠さんなりに決意を固めたんだろうなぁって、そう思った。
高遠さんはそう思わせてくれる表情をしていた――
「何か、結局お前に借りを作っちまった気がするな」
「そ、そう?」
――のも束の間、何だかものすごく嫌な予感がしてくる。
『借り』って言葉が、何だかものすごく引っ掛かる。
すると、予想通りにミミちゃんモード……
「だから、また今度ゆっくりと借りを返してやるよ。……ねっ、橘クン」
……にはなっていなかった。
言ってる言葉は似たようなものだったけど、その口調はとても自然なもの。
聞いてて嫌じゃない、声だ。
……ちょっと言い直す。
『声だ』じゃなくて、『声は』だ。
――高遠さんの左腕が見事に俺の首を回り、そのまま背中に身を任せてきていたんだ。
そして、そのまま高遠さんは切り出す。
「思うんだけど……」
「な、何?」
俺は、高遠さんのケガのこともあって下手に動けない状態で、その表情も確認できないまま恐る恐る呟く。
微妙に、背中への圧迫感が増してくる。
それがまた、俺の中で不安感を増幅させた。
「橘、気にしすぎだよ。あの子たちに好かれてること。普通に話せばいいじゃないか。あいつらがお前のことを好きになるのも自由だし、お前が誰を好きになるかだって自由だ。だから、仮に誰か一人を選んだとしても、他のやつらと仲違いが起こるなんてことは無いだろ。あいつらだって、仲悪くなりたいとは思ってないだろうし。……違うか?」
「いや……そのとおりだと思う」
高遠さんの言葉は、俺の予想とは全く違ったもので、しかもすごく理にかなっていると思えた。
こんな体勢で、背筋を悪寒が這い上がってきてもおかしくない状態なのに、すんなりとそんな言葉が漏れる。
それだけ、言葉だけじゃなくて、高遠さんの口調に信憑性が満ちていた。
「じゃあ、そんなど〜でもいいことで悩んだりすんなよ。むしろ楽しめ!」
高遠さんはそう言うと、身体を離して俺の背中を少し強めに叩く。
「ど、ど〜でもいいこと?」
「そっ、ど〜でもいいこと。……ま、それくらい気持ちに余裕を持った方がいいってことさ。私もそうすることに決めたから」
ようやく振り向くことができた俺の目に映ったのは、とてもすがすがしく見える高遠さんの素顔……だと思う。
決意に満ちて、迷いを吹き飛ばそうとしているような、この快晴の空にも似た表情。
「……それもそうだな!」
その言葉を放つと、何だかもやもやとした気持ちも一緒に口から放たれたように思えた。
もちろん、いきなり全てを気にしないでいられるようにはならないと思う。
でも、気持ち的に格段楽になったのは確かだろう。
「さ〜て、これからどうするかな? どっか行くか?」
「どっかって……別にかまわないけど、どこ行くのさ?」
軽く伸びをしながら聞いてくる高遠さんに、気分の良さを言葉に反映させながらそう返す。
――――が、
「――――ホテルにプロレスごっこでもしに行こっか」
「えっ!?」
返ってきたのは、さっきとは違って明らかに『ミミちゃん』モードな口調の言葉だった。
心境が急転して、何だか息が苦しくなってくる。
「た、確かもう仮面を付けるのは疲れたとか何とか言ってなかった……っけ?」
何とか呼吸を整えながら、そう問いかける。
「言ったような気はするけど、考えてみれば、もうどの仮面も間違いなく『自分』なんじゃないかって思えてさ。そう思ったら、それでもいいかなぁって。下手に『一つ』を決めようとするほうが、よっぽど気持ちに余裕が持てなくなりそうだし。――さっ、そんなことはどうでもいいからっ!」
言い終えた高遠さんは容赦が無かった。
抵抗する余裕さえも与えてくれず、俺の手を握ってそのまま屋上の出入り口へ。
「お、おぃ! ちょっと待てって!」
「ダ〜メ! 『ギブ』の後は『テイク』っ!」
その声は叫びとなって屋上の空間に散っていく。
それはまるで、高遠さんとの関係を良くも悪くも深いものにするキッカケを作ってくれた屋上への、ささやかな置き土産のよう。
出入り口の扉を閉める音が、あのホテルの自動ドアとは違った、良い意味での『手動感』を与えてくれていた。
――――いくら高遠さんに引っ張られていようが、それは『強制』ではない行動なんだ。
あっ、そうそう、あの猫の名前のことを忘れてた。
ちゃんと聞いてみたんだ。どうしてあんな名前をつけたのかって。
そしたら――
「……は? あぁ、あれは私が『名前なんて何でもいいですよ』って先輩に言ったら、『じゃあ翔羽ってのは?』って言ってきて、まぁ別に本当に名前なんてどうでも良かったから、いいんじゃないですかって言っただけさ。……まさか、ホントに翔羽って名前になったのか?」
――――だ、そうだ。
ようは、結局姉貴のせいだってこと。
全く、毎度のことながら勘弁してほしいよ。
ってか、人に罪を擦り付けるなっての。
――――でもまぁ、別にそんなこと、ど〜でもいっか!
===あとがき=====
黒髪の〜長い髪を〜風が……
第30話、公開です!(意味不明だし)
いやぁ、ようやく高遠明日香編も最終話にこぎつけました。
何だか予定より、だいぶ長くなってしまいました。
いつもの一話分の倍くらい……かな?
結局、高遠さんは最後まで捉えにくい謎なキャラとなりましたね。
一つの『素顔』というものが出来上がることも無かったし。
……でも、それが高遠明日香というキャラなんですよ。
この曖昧さが、彼女の良いところかと。
そういうキャラが居るってのは、とっても大事なことだと、今しみじみ思ってます。
ただ、わかってくださってるとは思いますが、彼女の心境は確実に変化していきました。(……よね?)
高遠さんの家庭問題、かなりありがちな内容だったと、自分でも思ってます。
ま、でもそれでいいんですよ。
……いや、けして投げやりになってるわけじゃないんですよ(汗)
ただ、大事なのはそこじゃないっていうことです。
純羽が手を上げたってのは、自分でもビックリしましたが(笑)
まぁ、もしかしたら居てくださっているかもしれない高遠さんファンの人の期待に、果たして答えられたんだろうか……それだけがちと不安です(汗)
さて、高遠明日香編も終わって、次話からは加賀見エイミー編をお贈りする予定です。
エイミーをヒューチャーするわけだから、今度はコメディ色を出していければなぁと思案中。
毎度のように更新遅めになりそうですが、どうかめげずに待っていていただければ、これ幸い。
それでは、加賀見エイミー編の第一話、第31話のあとがきでまたお会いしましょう!
2005/02/08 22:22
やる気を充填中! ……な、状態にて。