第29話〜feat. ASUKA TAKATO #4 [根付く気持ちは×××]〜 |
俺はただ、無秩序に移り行く景色を呆然と眺めていた。
――親父が運転する車の助手席。
その窓から見える景色は、スケッチブックにただ適当に暗色の絵の具を塗りたくったような、そんな曖昧な感じにしか捉えられない。
カーラジオから流れる一昔前のバラードナンバーが醸し出す雰囲気も、今の心境を侵食するまでには至らない。
今、周囲から伝わる情報は、無意識のうちに作り上げられたフィルターに通され、そのほとんどがシャットアウトされている。
――今はただ、自分自身の心を落ち着かせることに集中していないと、現状を受け入れることが出来ない状態なんだ。
高遠さんの父親……だと思われる人物からの電話を受けた後、俺は何とか冷静さを保ちながら、親父に電話の内容を伝えた。
親父は俺の言葉を聞くと、すぐに反応して外出の準備を。
そして、横で聞いていた姉貴は俺の表情だけで事の重大さに気付いたらしく、親父に説明をし終える頃にはすでにその姿を外出スタイルにしていた。
「ほらっ、呆けてないで早く準備しなさい! コートくらい羽織らないと、外、寒いわよ!!」
姉貴にそう言われ、想像の世界に吸い込まれそうになっていた意識を何とか呼び戻す。
何度も掛け違うボタンに苛立ちを感じながら、結局羽織るだけにしたコートは、家族揃って玄関から外へ出た瞬間に冷たい夜の空気をはらむ。
――頬を刺す冷気が、テンパっている俺に救いの手を差し伸べてくれていた。
少々の想起は、周囲の景色を実体として捉えられる程度には、俺の気を整えてくれていた。
だが、その分俺の中で、小さな苛立ちが雪のように積もりだす。
立ちはだかる信号機や道路工事や車道に侵入している酔っ払い。
――胸の中を火であぶられているような気分。
思わず叫びたくなるが、車内の空気がそれを封じる。
親父も姉貴も、その表情をあからさまに硬くしていた。
親父にしても姉貴にしても、高遠さんは一応面識のある人物。
その高遠さんが交通事故にあったという事実は、そうさせるのには十分な出来事だった。
――早く病院に到着したいと思っているのは、俺だけじゃない。
周辺地域の中では最も大きい総合病院の駐車場に到着すると、俺は一目散に病院の入り口へと駆け出した。
一分、一秒が惜しい気がしていた。
とにかく少しでも早く、高遠さんの元へ。
入り口を通過して受付へ。そしてすぐさま高遠さんの居場所を聞き出しにかかる。
あからさまに不信がられたが、親父が事を説明してくれたおかげで、疑いは取れたようだ。
「――今、高遠様はCT室の方で検査を受けていらっしゃいます。室内へは入れませんが、場所はこの廊下の突き当りを左に曲がって二番目の部屋になります。CT室前の廊下に設置してある席でお待ちください」
的確な説明を受けると、俺は説明をしてくれた看護師さんにお礼をするのも忘れて、周囲の注意を引いてしまうのも気にせずに駆け出した。
(CT室? よくわからないけど、そんな大掛かりな機材を使わなければいけないくらいにヤバい状態なのか、高遠さんは!?)
あっという間にCT室の前まで辿り着き、軽くあがっている呼吸を整えながら設置されている席に座る。
CT室のドアの上部に見える、点った『使用中』のランプ。
そして、親父と姉貴が続いて到着すると、やけに異様に感じてしまう静寂が、まるで俺たちを包み込むかのように周囲を覆った。
チッ…チッ…チッ…チッ……
どこからともなく時計の針が動く音が聞こえてくる。
当然、一回の『チッ』で一秒。
……だが、『チッ』の間隔は、無残なほどに長く感じた。
周囲の静寂とは裏腹に、自らが発する呼吸音と鼓動音は、けたたましく感じる程に響き伝わる。
こんなにも『待ち時間』というものを意識したのは、今が始めてかもしれない。
どうにも落ち着かなくて、隣に座っている親父に視線を向ける。
親父は何というか、神妙な面持ちをしていた。
ただ真っ直ぐにCT室を見つめ、時折スッと瞳を閉じ、かと思えばまたCT室を見つめだす。
現状をしっかりと受け止めている……ということなんだろうか。
それとも、ただそういう風に見えるだけなんだろうか。
それを明確にすることは出来ないけど、一つ確かなのは、親父がすでに似たような体験をしているということだ。
――――母さんがその生涯を終える瞬間。
俺は立ち会えなかったから詳しいことはわからないが、親父はその時、集中治療室を前にただ成り行きを見守ることしか出来なかったらしい。
その時の親父の心境は、俺なんかが窺い知れるものじゃないだろう。
それだけの体験をしている親父。
きっと、落ち着いているかどうかはわからないけど、心に揺らぎは無いに違いない。
そんな親父の隣で、姉貴は手を組んでうつむいていた。
その表情を窺うことは出来ないけど、姉貴にしては珍しく、どこか不安感を滲ませているように、けしてまともな状態ではない俺でも感じる。
――自然と、俺の中でも不安感が増殖し始める。
何で、こんなにも辛いんだろうか。
息が詰まるような圧迫感。
逃げ出したくなるほどに感じる威圧感。
追い討ちをかける疲労感。
本当に、この場から立ち去ってしまいたくなる。
けど、本当に辛いのは俺たちではなくて高遠さんなはず。
この目の前にあるドアの向こうに居る、高遠さんなはずなんだ。
――そうやって何とかこの場に留めさせようとしている、自分が居た。
大した時間は経っていない。
けど、物凄く長く感じた時間を超え、その時は訪れた。
――――『使用中』のランプが消えたんだ。
瞬時に緊迫感が俺たちを包み込み、身体は無意識のうちに着席を拒む。
ガチャ
そのドアが開かれる乾いた効果音が、まるで脳を貫通するかのように響く。
そしてそこから、医師が無表情に出てくる。
知らぬ間に、生唾を飲み込んでいた。
続いて、看護師が操る担架台が出て――――くることは無かった。
――医師に続いて出てきたのは、被験者を乗せた担架台ではなく、右腕に包帯を巻きながらも、まるで何事も無かったようにだるそうな表情を見せる、高遠さんその人だったんだ。
まさに拍子抜け状態だった。
目の前に居る人物が本当に高遠さんなのか、本気で疑ってしまいそうなくらいに。
半開きになった口から、言葉になってないかすれた声がこぼれる。
だが、そんな俺の心境になど全く気付いていないんだろう。
検査衣姿の高遠さんは、俺の姿を確認するとその視線を鋭くした。
しかし、それは一瞬のこと。
隣に親父や姉貴が居るためだろう、視線を緩めてから疑問を投げかけてくる。
「何で、橘がここに居るの? それに、おじさんに先輩まで……」
その口調も、いたって自然なもの。異状をきたしているということは無いだろう。
あまりに軽傷すぎて……いや、もちろんそれに越したことは無いんだけど、あまりにも想像とかけ離れすぎていて、俺は高遠さんの質問に、まるで金魚みたいにただ口をパクパクさせることしか出来なかった。
その様子に素早く気付いた親父が、すかさずフォローしてくれる。
「えっとですね、お父様から、あなたが交通事故にあって救急車で運ばれたという電話をいただきまして、それで病院の方に来てほしいということだったので、こうして今ここにいるというわけなんです」
高遠さんは親父の言葉を聞くと、何故か瞬時に表情を歪ませた。
そして軽く顔をうつむかせながら、吐き捨てるように小さな声で放つ。
「……あの無責任が」
「そういえば……こっちに来てから、まだお父様らしき方の姿を拝見していないんですけど……」
「多分、来ないかもしれません。来たとしても、ひょっこり現れて、またひょっこり消えますよ」
親父は、高遠さんの言葉から何か違和感を感じ取ったらしい。
いつもの優しげな表情を向けながら、穏やかな口調で問いかける。
「お父様と……仲が悪いんですか?」
高遠さんは、何がおかしかったのか、不意に含み笑いを漏らす。
それは、傍から見ていて少し異様にすら見える光景。
自嘲的な笑みを表情に残しながら、高遠さんは言った。
「仲が良いとか悪いとか……そんな次元じゃないですよ。まぁ、少なくとも仲が良いってことはないですけどね」
ふと、沈黙が訪れる。
その言葉がけして嘘まやかしでは無いということを、労せず理解した瞬間。
「……それはそうと、身体は大丈夫なの、高遠ちゃん!?」
姉貴が耐えかねたように高遠さんに迫りながら放ち、場の気まずさを払う。
「あっ、大丈夫ですよ。見ての通り、少し腕をケガしたくらいですし。それにお医者様も、まずこれといった問題は無いでしょうって言ってましたから。一般の病棟で一日だけ入院って形になるっぽいですけど」
「ホントに? ならいいんだけど……。ホントに心配しちゃったよ〜。電話を受けた時の翔羽、もう顔面蒼白状態だったから、ただ事じゃないんだと思っちゃって」
姉貴に向けていた視線をずらし、高遠さんが鋭い視線を俺に向ける。
その眼光も、やはり鋭い。
俺はたじろぎながら、何とか言葉を返しだす。
「い、いや、あれは電話で『交通事故』と『救急車』っていうキーワードしか聞いてなくて、そしていきなり病院の場所を聞かされたから、相当にヤバい状態なんじゃないかって思ったからで……」
すると、高遠さんは再び表情歪ませる。
「ハァ、ホントに何なんだかアイツは。大体、何で橘の家に電話なんか――」
「――――明日香」
高遠さんの言葉が完結することは無く、その代わりに聞こえてきたのは、聞き覚えのある男性の声。
皆、揃って声の元へと視線を向ける。
するとそこには、ゆっくりと近づいてくる壮年の男性が。
とても若々しく、混じった白髪だけがその年齢の予測材料な、容姿端麗の男性は、高遠さんの前まで来ると、笑みを浮かべながら高遠さんの頭を撫でた。
あからさまに、嫌そうな表情を見せる高遠さん。
――この人が、高遠さんのお父さんらしい。
「いきなり何するんだよ!?」
高遠さんの罵声を全く気にすることも無く、高遠さんのお父さんは慣れた様子で切り返す。
「明日香こそ、その言い方はないんじゃないか? 折角、こうして様子を見に来てやったっていうのに」
「頼んだ覚えは無い! それに何で橘に連絡したりしたんだよ!?」
「何でって、明日香の部屋にたまたま電話番号が書いてあるメモがあったからさ」
「なっ!? 勝手に人の部屋に入るなって、何度も言ってるだろ!!」
「どうして? 何も下着をあさったりしてるわけじゃないんだし、いいじゃないか。家族なんだし」
二人の会話は、高遠さんのお父さんによるその一言で、一瞬断たれる。
――高遠さんの表情に、憎しみのようなものが滲み出ていた。
そして、高遠さんは父親の胸倉を左手で掴みかかる。
「家族だって!? ふざけたこと言ってんじゃねぇよ! アンタは……アンタは家族なんかじゃねぇ!!」
周囲に響き渡る程に大きな叫び声。
そして、殴りかからんばかりに睨みつけている高遠さん。
しかし、やっぱり笑顔で全く動じていない高遠さんのお父さん。
――俺は、目の前で繰り広げられている出来事を、ただ呆然と見やることしか出来ずにいた。
いったい何なんだ?
高遠さんの変わり様も、高遠さんのお父さんの余裕さも、どちらも意味がわからない。
高遠さんは何故、こんなにも感情をあらわにしているのだろうか。
そして、高遠さんのお父さんは、実の娘に散々なことを言われているにもかかわらず、どうしてこんなに余裕そうにしているんだろうか。
ただただ、意味がわからなかった。
「――そろそろよろしいですか?」
今まで沈黙を守っていた医師が、不機嫌そうに高遠さんに告げる。
その声で、何とか高遠さんの暴走は収まった。
自らの父親へ向ける睨みは消えないものの、ゆっくりと胸倉を掴む左手を下ろし始める。
そして、
「すいませんでした。わざわざココまで来させちゃって。……失礼します」
高遠さんは、親父に向かって頭を下げると、きびすを返して医師と共にこの場を後にした。
――何も無かったかのように、静寂があたりを包む。
「――高遠さん、少しよろしいですか?」
沈黙を破ったのは、意外にも親父だった。
沈黙に耐えかねたのか、会釈のみを残してこの場を去ろうとしていた高遠さんのお父さんを呼び止めたんだ。
高遠さんのお父さんは、一瞬困ったような表情を見せるが、すぐにこれまでと同じ笑みに戻して、空いていた座席に腰を下ろす。
親父はその様子を確認すると、俺の方を向いて言葉を伝えてくる。
「翔羽君は高遠さん…えっと、明日香さんのところに行ってきてくれませんか? 彼女が言っていたことが確かなら、多分今頃一般病棟の病室にいらっしゃると思いますから」
「えっ? まぁそれはかまわないけど……なんで?」
「病室でボーっとしていてもつまらないでしょう。僕はこれから高遠さんと話すことがありますから、その間にお話でもしてきてあげてほしいんですよ」
「ねぇお父さん、私は?」
「舞羽さんにはちょっと買い物をしてきてもらいたいんですけど……。えっと、もう結構な時間ですし、いい加減お腹もすいてきませんか?」
「あっ……確かに」
「だから適当にお弁当か何かを買ってきてほしいんです。お財布は持ってますか?」
「あ、うん。一応持ってきてる」
「じゃあ後でお金は渡しますから、舞羽さんと翔羽君と私と……高遠さんは晩御飯はお済みですか?」
「あっ、お構いなく」
「――じゃあ、とりあえず三人分買ってきてもらえますか?」
「りょ〜かい!」
「ふふ、お願いしますね」
姉貴は親父に向かって敬礼のポーズを取ると、足を弾ませながら入り口の方に向かっていった。
「さぁ、翔羽君も」
「あ、あぁ」
……気のせいかもしれないけど、親父がなんだか急かしているように感じて、少し違和感を覚えたけど、そのことを聞いても仕方が無い。
俺は高遠さんのお父さんに軽く会釈をしてから、この場を後にした。
一般病棟に着くと、何だか少し空気が変わったように感じる。
CT室の前とは違って、言い方は悪いかもしれないけど緩い感じ。
その空気の変化のおかげか、俺の心境も少し落ち着いたものになっていた。
もちろん、高遠さんの無事を知れたということが、一番の理由ではあるけれど。
すでに、俺は高遠さんが居る病室の場所を看護師の方から聞き出していた。
だから、迷路のようなこの病棟内でも、迷わずに目的地へと進むことができている。
止まることなく歩き辿り着いた一室の前で、俺の歩みは止まる。
……さて、ここまで来たのはいいけど、いったい何を話せばいいんだか。
ふとそう思い、ドアノブにかかりかけた手を留める。
高遠さんに振ることが出来る話題……そんなものは、そうそう無い。
数十秒考えた末、俺はあの猫の名前について話すことに決めた。
――何故、翔羽なんていう名前をつけたのか。
うん、十分な話題だろう。
話すべきことが決まると、気持ちが幾分楽になる。
俺は躊躇うことなく、病室のドアを開け――
「――!? キャッ!!」
――ビックリした。
ドアを開けたその先。
そこには、見事に下着姿な高遠さんと、高遠さんの私服を持った女性の看護師さんが居た。
もちろん、その格好にもメチャクチャ驚いたんだけど、それと同じくらいに驚いたこと。
それは、高遠さんが発したその声だ。
高遠さんが『キャッ!!』?
あの、俺を挑発してきた高遠さんが?
そりゃ、ビックリもするさ。
高遠さんは看護師さんから奪い取るように私服を掴むと、慌てて私服で身体を隠す。
看護師さんは俺に向かって「あらあら」と笑みを見せると、そっと近づいてきて、
「ほら、呆然としてないでちょっと外で待っててね」
そう言って俺を外へと押し出した。
「な、なんだった……んだ?」
驚きと焦りで、本当に何がなんだかわからなかった。
異様なほどに、鼓動が高まっている。
目の前にあった座席にどっと座って、胸に手を当てて気持ちを落ち着かせる。
そして軽く深呼吸。
少し……落ち着いたかな?
――それにしても、やっぱり高遠さんってスタイル良いな。
ダ、ダメだ。
全然落ち着いてない。
しばらくの間、何ともいいにくい身体の高揚感に悩まされていると、ようやく看護師さんによって病室のドアが開かれた。
看護師さんは俺に朗らかな笑みを見せると、この場からゆっくりと去っていく。
開かれたままのドアの先には、私服を纏った高遠さんの姿が。
自分の視界から看護師さんが消えたのを確認したのか、室内に設置されているベッドに腰掛けながらおなじみの鋭い視線をこちらに向けてくる。
物凄く入りづらい空気が充満しているように感じたけど、だからといってここでボ〜っと立ち尽くしているわけにもいかないから、気持ち高遠さんから視線を逸らしながら侵入を試みる。
室内に入ると、何か病室独特の匂いみたいなものを感じる。
清潔に保たれているであろうベッドシーツから流れる洗いたての匂いに、仄かな薬品のような匂い。
その匂いが、どこかあのCT室とは違う異空間さを醸し出していた。
侵入に成功したのはいいものの、いざ高遠さんの目の前にまで歩みを進めると、決めていた台詞文句をさっきの出来事で完全に忘れてしまったことに気づく。
待ってましたとばかりに訪れる、沈黙。
絶えず稼動し続ける空調の音だけが、まるで何かの唸り声のように響いている。
――ふと、高遠さんが深いため息を漏らした。
「……何しに来たんだよ」
「あ、その、親父が話でもしてこいって……」
「……別に話すことなんて何も無いだろ?」
「いや、まぁそうなんだけどさ……」
何か全然会話にならない。
再び沈黙状態に入り、何か話さないとという思いばかりが、頭の中で渦巻く。
「……ま、とりあえず座れよ」
そんな状況に業を煮やしたのか、高遠さんは俺にそう促してきた。
とは言っても……
「えと、椅子とかって無いの?」
「ん、無いのか? じゃあここに座れよ」
高遠さんはそう言って、自分が座っているベッドのすぐ横を指す。
いや、座れよって言われても……。
俺が困惑していると、高遠さんはより不機嫌さを増して、
「いいから座れっての!」
そう叫びながら、無理矢理俺を引っ張ってベッドの上に座らせた。
左を向けば、包帯を巻かれた高遠さんの右腕を至近距離で確認することができる。
やっぱり見た感じはそれほどひどい怪我のようには思えない。
「――気になるか?」
知らぬ間にまじまじと見ていたのか、高遠さんはそんな言葉を投げかけてくる。
とりあえず、このまま沈黙状態が続くよりは良いだろうと思い、素直に頷く。
すると高遠さんは、右手の包帯を左手で弄りながら、ゆっくりと話し始めた。
「――橘と別れてからそんなに時間は経ってなかったと思うけど、バス停に着く途中で後ろを振り向いたら、車が物凄い至近距離を走ってきてたんだ。
一瞬見間違えかと思ったよ。ホントに至近距離だったから。
慌てて避けに入ったんだけど、右手だけぶつかっちゃってさ。
それで、偶然近くにいたおばさんが慌てて救急車を呼んだってわけ。
まぁ怪我自体は大したこと無くて、ちょっとヒビが入ったくらいだったから良かったけど、車の運転手が逃げたのだけはムカツクな」
高遠さんは特に口調を変えることなく、淡々と語っていた。
それだけでも、本当に怪我が大したものでは無いという事を改めて実感できる。
……とは言っても、うちから帰った時に交通事故にあってしまったっていうのが、何か心苦しい。
「えっと……ゴメン。うちに来ることがなかったら、こんなことにはならなかったのに……」
正面の壁に向かって軽く頭を下げながらそう呟く。
……返事が無い。
不安感が湧いてきて、そっと視線を移す。
高遠さんは何だか不機嫌そうな……いや、どこか不思議そうな表情をしていた。
――こちらを向くことなく、ただ正面を見つめて。
「……どうして橘はそうなんだよ」
「えっ?」
「だから、どうして橘はいつもそうやって人のことばかり何だよ。別に他人のことなんて気にしなくたっていいじゃないか」
……俺は、高遠さんが何を言いたいのか、始め良くわからなかった。
けど、高遠さん自身はいたって真面目な様子。
何となくわかってからも、何でそんなことをわざわざ聞くのかがわからない。
――だって、そんなのあたりまえなことじゃないか。
そう思ったから、素直に自分の意見を告げる。
「う〜ん、まず、俺は高遠さんのことを『他人』だなんて思ってないし、『友達』だと思ってる。そして、友達が嫌な目に合うのは、俺自身にとっても嫌なこと。……少なくとも、良い気分になることは無いだろ? だから、別に意識してやってるわけでも何でもなくて、自然にそうなっちゃってる……って感じかな。ま、ホントに意識してやってるわけじゃないから、実際のところは俺も良くわからないんだけど」
最後は少し苦笑混じりに。
高遠さんは俺の言葉に、ただただ目を丸くして――
俺は、その表情に驚きを隠せない状態になる。
――――何故だか高遠さんは、軽く目を潤ませていたんだ。
高遠さんが目を潤ませる。
その事実だけでも十分驚きに値するものだけど、それよりも、この後高遠さんが放った言葉――そっちのほうが、俺にとってより驚愕に値するものだった。
高遠さんは、その身体を完全に俺のほうに向けていた。
そして、俺の肩に手を乗せて、空調の音にかき消されそうな程に小さな声で呟く。
「……なぁ橘。私は、私は何であの無責任オヤジなんかの娘なんだよ。……橘の家の子供だったら良かったのにな」
何か、あまりにも話のレベルが高く、そして重くなった気がして、驚愕と共に混乱が迫ってきた。
そして、言葉に詰まってしまう。
高遠さんは、自分の父さんのことを物凄く嫌って……いや、嫌っているなんてレベルじゃなくて、まるで憎んでいるかのよう。
いったい、何でそんななんだろうか。
……全く、わからなかった。
俺は親父のことが好きだし、尊敬してる。
それこそ憎むなんてことは、けしてありえない。
だから、高遠さんの気持ちを理解することができない。
いったい何が、高遠さんをこうさせているんだろうか。
――――知りたい。
その想いが、ふつふつと湧き出していた。
俺がそう想うことも、高遠さんにとっては不思議なことなんだろうか。
でも、自分で言ったとおり、『友達』が自分の親を憎んでいるだなんて、俺には耐えられない。
「……なぁ、何でそんなにお父さんのことを嫌ってるんだ? 何か理由があるんだろ? もし良かったら話してくれないかな。……ま、まぁ、もちろん言いたくないんだったら、無理に話してくれなくてもいいんだけど」
気持ち諭すような、ゆったりとした口調で、目の前にいる高遠さんに話す。
高遠さんは顔をうつむかせていたけど、やがて顔を上げて、
「……橘になら、話していいかもな」
苦笑交じりにそう言って、俺の肩から手を離した。
――――俺の中での『高遠さん像』が、一変した瞬間だった。
===あとがき=====
病院の雰囲気って、表現するの難しいですね。
第29話、公開です。
お待たせしました。
ようやく、第29話を公開することができました。
いやはや、最近は中々時間が無くてツラいッス(汗)
それにしても、高遠さんは本当に作者泣かせなキャラです。
一話一話、どう高遠さんの感情を表現するか、ホントに悩まされます。
本話では怒りの部分が多かったわけですが、彼女の場合、それがすべてではない。
だからこそ、一つ一つの会話に気をつけなければならない。
まぁ、その分書きがいはあるんですけどね(笑)
ここのところ、割とシリアスチックな雰囲気が続いていますね。
何だか、また「コメディじゃない」って言われてしまいそうですが、そこはご容赦ください。
こういった面も、「らぶ・ぱにっく」の一つなので。
さて、次話で高遠明日香編は終了する予定です。
翔羽に告げる、高遠さんの話の内容とはいったい……。
そして、高遠さんの心境はどう移り行くのか……。
そこらへんに注目していただきたい、第30話のあとがきで、またお会いしましょう!
2005/01/23 23:49
色々と頑張らなきゃいけないことが……な状態にて(泣)