第23話〜feat. KAORI IZUMIKAWA #5 [終わりと始まり]〜 |
俺の唇は、泉川の唇との距離を着実に縮めていた。
何だろう……もう数センチの間隔しか無いというのに、やけにその距離が長いように感じる。
辺りは様々な音で溢れているはずなのに、俺の耳にはその音が全くと言って良いほどに入ってこない。
いや、耳に入っていないわけではない。俺の聴覚が、まともにその機能を発揮していないんだ。
今、俺の感覚の割合は、かなりのパーセンテージで触覚に集中している。
触覚が七割、視覚が一割五分、嗅覚が五分、聴覚が五分、味覚が五分、といったところだろうか。
とにかく、俺はただ泉川にキスをするだけだ。
……泉川の鼓動が早い。……ん? これは泉川の鼓動か?
いや、違うかもしれない。もしかしたら、これは俺の鼓動なのかも。
……ひょっとして二人ともの……か?
もう、よくわからないや。
ただ、今も泉川は俺がキスをするのを待ってくれている。――それは確か。
間隔は、あとわずか――――
「あれ〜? 翔羽?」
――その声は、何故かまともに機能していないはずの聴覚を刺激していた。
間違い無く、聞き覚えのある声。そして、それは泉川も同じようだった。
閉じていた目を見開いて、驚きの表情を見せる。
慌てて泉川の肩に回していた手を解き、周囲を見まわす。すると、必然的にある地点で視線が止まった。
――もう、ただ驚くしかなかった。
――――そこにいたのは、まぎれもなく我が姉、橘 舞羽だったんだ。
「あ、姉貴……!! な、何でここに!?」
「何でって、別に私が何処に行こうが、私の勝手でしょ?」
「そ、そりゃそうだけど朝に――」
そこまで言ったところで、問答無用に言葉が返される。
「あら〜、ズミちゃんもいるんだ〜! って、当然よね。翔羽の彼女なんだし。ホント、翔羽なんかの何処が良いんだか。……私には良くわからないけど、いつもありがとうね〜♪」
「は、はぁ」
泉川も、何が起こっているのかいまいちよくわかっていない様子で、そんな適当な言葉しか返せないでいる。
(い、いったい何なんだ? いきなり現れて、姉貴は何を言っているんだ?)
もう、ホントにわけがわからない。姉貴は、いったい何をしに来たんだろうか。
……そういえば、朝『何だか楽しそうだから私もついて行っちゃおうかな〜』なんてこと言ってたけど……まさかマジでそのつもりだったってことなのか!?
俺が混乱状態に陥っていると、突然、横から大きな叫び声が聞こえてきた。
「あっ! もしかして橘 舞羽!?」
それは、ベンチの手すりによって少し間隔の空けられた先に座っている、篤史の彼女が放った叫び声だった。
姉貴がそれに対して頷くと、篤史の彼女は満面の笑みを見せながら立ち上がり、
「すっご〜い! こんなところで会えるなんて!!」
そう言って姉貴の姿を目に焼き付けている。
篤史は、何でそんな行動を取っているのかがわかっていないらしく、
「何だ? この人、何かスゲー人なのか?」
そう質問を投げかけていた。
「そうよ。AfteR SchooLっていうファッション誌のモデルやってる人! 私、大ファンなんだよね〜」
「ふ〜ん。……お前の姉貴って有名人なんだな」
「あ、あぁ。……まぁな」
俺は篤史の言葉に対して、そんな適当な相槌を返すことしか出来ない。
まだ、姉貴がこの場にいるという事実による驚きから、抜け出せていないんだ。
そんな状態に陥っている中、姉貴は笑みを向けながら話し出す。
「ねぇ、もし良かったら一緒に色々周らない? 私、今一人だしさ〜」
姉貴の言葉を聞いた瞬間、俺は思いっきり焦った表情を姉貴に向けた。
そして、泉川の方を向いて、視線だけで簡単なやり取りを行う。
(おぃ、どうする?)
(ど、どうするって言われても……)
(全く、姉貴のやつ、何考えてんだよ)
(……でも、きっと何か考えがあるんじゃないかな?)
……実際、こういった言葉を交わしたのかはわからなかったけど、少なくとも同じような内容のやり取りだったのは確かだ。
泉川と一緒に姉貴を見やるが、困惑だけが前面に出て、言葉を紡ぐことが出来ない。
俺と泉川の表情を見て何か確信したのか、姉貴は篤史たちの方に視線を移して、変わらぬ笑顔で話す。
「何か翔羽たちは嫌みたいだから、そっちのお二人さんと一緒に行こうかなぁ。……ダメかな?」
「えっ! ホントですかっ!! ……ねぇ篤史ぃ、一緒させてもらおうよ〜」
篤史の彼女は、心底嬉しそうな顔をしながら、そんな言葉を篤史に投げかける。
篤史は、その言葉に最初は表情を崩していたが、しばらくすると彼女のマジさに屈したらしく、
「わぁったよ。お前がそんだけ言うんだったら、断れないしな」
何か諦めたようにそう言って、姉貴に向かって礼をしていた。
……正直、意外だった。
篤史は、今までの中で一番穏やかな微笑を見せていた。
それは、まぎれもなく優しさのこもった表情。
思わずその光景を、ボーっと眺めてしまう。
泉川も、同じくボーっと眺めていた。
……でも、泉川の方がもっと複雑な心境なんだろう。
何だか、確かに驚いている様子も窺えるんだけど、どこかでホッとしているような、そんな感じに見えたんだ。
姉貴は篤史の言葉を受け取ると、嬉しそうに笑顔を見せる。
そして、サッと篤史たちの手を取り「行こっ♪」と言って座ったままだった篤史を立たせた。
「……悪かったな、香織。変に疑ったりしてよ。それに……付き合ってた時にも色々嫌がることしちまって」
篤史は立ちあがると、言いにくそうにしながらも、泉川に視線を向けてそう呟く。
――『意外』。篤史の言葉を聞いて出てきたのは、その感情だけだった。
あの、さっきまで嫌味としか思えないような言葉ばかり放っていた篤史が、こんな言葉を呟き出すなんて。
また何か企んでいるんじゃないだろうか?
そう思わざるを得なかったけど、篤史の表情を見る限り、とても何かを企てているようには見えない。
「篤史……」
泉川は、驚きを通り越してしまったかのような、呆然とした表情を見せていた。
「……まっ、でもお前ももう少し積極的になった方がいいと思うぞ。橘は優しそうなヤツだけど、しっかり掴んどかねぇといつ離れていっちまうかわからねぇからなっ!」
言い終えると、篤史はもう視線をこちらに向けることは無かった。
姉貴は泉川の表情を満足そうに見取ると、ゆっくりと歩みを進め出す。
「それじゃあね〜」
言いながら、篤史とその彼女を連れて俺たちの前を通りすぎていく。
その瞬間、姉貴は俺たちに向けて軽くウインクをしてみせた。
(姉貴……)
何となく、姉貴の意図がわかったような気がして、表情が緩む。
俺と泉川は、姉貴たちが見えなくなるまで、ただ無言でその姿を追い続けていた。
そうすることしか、出来なかった。
「……先輩に感謝しなきゃいけないね」
姉貴が篤史たちを連れてどこかに消えてしまってからしばらくして、ようやく落ちついてきた頃、泉川がポロッと漏らしたのはそんな言葉だった。
俺たちは未だ、あのベンチに座ったまま。
二人顔を見合わせることもなく、ただ正面を向いたままの体勢だ。
「そうだな。……きっと、俺たちのこと心配して、ずっとどこかで見てたんだろうな」
……きっと、そうだ。そうじゃなければ、あんなタイミングで俺たちの前に姿を現すことなんて出来ないはず。
朝言っていた言葉も、このことを考えていて出た言葉だったんだろう。
姉貴ははなから、俺と泉川という即席の偽者カップルでは必ずどこかでボロが出るということをわかっていたんだ。
姉貴って、そういうところにやけに鋭かったりするしな。
「ホント助かったよな。……とりあえず、もうカップルのフリをする必要もなくなったわけだし」
言いながら、立ち上がって軽く伸びをする。
何だか、さっきまで神経を酷使し続けてきたから身体がガチガチになっているんだ。
でも、何とか無事に済んだみたいでホントに良かった。
「そう……だね」
――しかし、そのわりには、泉川の声は何だか寂しそうな声質をしていた。
どうしたんだろう。何か、気になることでもあるんだろうか?
「どうした? せっかく上手くいったのにそんな声だしたりして」
言いながら、泉川の方を振り向く。
すると、泉川は声質と同じく、寂しそうな表情を見せていた。
軽くうつむいていて、とても良いことがあった後の様子には見えない。
「あ、あのね……その……」
「ん? どうした?」
「……ん〜ん……何でもない」
「……ん? ……まぁ、とにかく無事終わって良かったじゃん。……とりあえず、姉貴たちとまた出くわしても厄介だし、とっとと帰ろうぜ」
泉川の様子は気になったが、言った通り、また姉貴たちと出くわしたりしたら厄介だ。
篤史たちに『またダブルデートの続き、しようぜ』なんて言われたりするかもしれないし。
そっと手を持って、泉川を立ち上がらせようとする。
……しかし、泉川はそれを拒んでいた。
「どうしたんだよ? もしかして、体調でも悪いのか?」
相変わらずうつむいたままの泉川にそんな言葉を投げかけるが、それに対する反応は無い。
ホントに、どうしたっていうんだ。
しばらくの間、手を持ったままの体勢で待っていると、泉川は上目遣いに俺を見ながら、ゆっくりとその口を開き始めた。
「あのさ、折角だから、その……もう少しここにいない?」
「……いや……でも、さっきも言ったけど、また姉貴たちに会ったりしたら厄介だし――」
俺は泉川に改めて同内容の言葉を投げかけるが、その言葉が完結する前に、泉川からの言葉が返ってきた。
「お願いっ! もう少し……もう少しでいいから!」
泉川は、俺の手をギュっと握りながら、その上に自らの額を乗せていた。それに――
――――何で……身体を震わせているんだ?
俺には、その意味が全くわからなかった。
篤史たちが姉貴についていった今、もう篤史に嫌味なことを言われる心配は無い。
それなのに、何で……。
「お、おぃ。ホントにどうしたんだよ? 大丈夫なのか? 泉川――」
――言った瞬間、泉川は身体をビクッと震わせていた。
そして、体勢を変えることなく、何とか聞き取ることが出来る程度のか細い声で、言葉を呟く。
「――――もう、『香織』って呼んでくれないんだね」
「えっ?」
……泉川の言葉は、俺の頭を真っ白にしていた。
(何だ? ……何なんだ? どういう意味だよ……泉川)
泉川は、そんな俺の心情に気付いてか気付かずか、慌てて顔を上げると急に顔を赤くした。
そして、俺の呆然とした表情を確認すると、焦ったように言葉を連ね出し――
「な、何言ってるんだろ、私。……ハ、ハハ、ゴメン、気にしないで。ホントに、何でもないから。何でもない……からっ!」
――突然立ち上がったと思うと、そのまま走ってベンチの前から遠ざかっていった。
ホントに、何から何まで、全然意味がわからない。
泉川は、何で俺の前から走り去っているんだろう?
言ってることとやってることが、全く違うじゃないか。
どう考えても、『何でもない』なんてことないじゃないか!
でも、どうして……。何が原因なんだよ……。
呆然としながら思考している間にも、泉川の姿はどんどん遠ざかっていく。
――――こんなところで、呆然としている場合じゃない。
「おぃ! ちょっと待てって!!」
自然と叫びながら、全速力で走り出していた。
無人のベンチの上には、ほとんど手のつけられていないポップコーンが並んで置かれたままだ。
――しかし、泉川は人ごみの中に入りこんでしまったらしく、全くその姿を確認することが出来なくなっていた。
それでも、人ごみをかき分けながら、必死にその姿を探す。
(どこだ!? どこに行ったんだよ、泉川!)
だが、そう簡単には発見することが出来ない。
ホントに、どこに行ったんだよ。
こんなんじゃ、いつまで経っても見つからないぞ!?
……そうだ、ただ闇雲に探しまわったって、時間の無駄なんじゃないのか?
そうだよ! それくらい気付けよ俺!
ようやく出てきた案で、俺は動かし続けていた足を止めた。
そして、落ちつくために人ごみを避け、適当なベンチに腰掛ける。
息を整えて、行動方針を模索。
そしてしばらくして出てきた案を、一つ一つ行動に移す。
まず、携帯電話での連絡。
………応答無し。
次に、道行く人に尋ねるという行動。
これは、わりと収穫があった。
どっちの方に向かって行ったのかが、わかったんだ。
どうやら、泉川はファンタスティック・ゾーンの方に向かっていったらしい。
まだ、泉川とはぐれてからそれほど時間は経過していない。
もし、ファンタスティック・ゾーンの方に向かって行ったという情報が確かなら、トゥモロー・パークから出ていってしまったということは無いだろう。
トゥモロー・パークの出入り口へ向かうためには、必ずピースフル・ゾーンを通らなければならないし、アドベンチャラーズ・ゾーンとピースフル・ゾーンの接線から出入り口までは、結構な距離があるからだ。
俺は情報を信じて、すでにファンタスティック・ゾーンへと足を踏み入れていた。
ファンタスティック・ゾーンは、アドベンチャラーズ・ゾーンのようにアクション系の乗り物が多い場所ではなく、メルヘンチックなものが多く存在している場所。
わかりやすい例をあげると、ファンタスティック・ゾーンにはメリーゴーランドやコーヒーカップ、それに観覧車なんかがある。
そんなファンタスティック・ゾーンの敷地の中心辺りにある、四角柱型のトゥモロー・パークのモニュメントの前で、俺は……打つ手を失っていた。
ファンタスティック・ゾーンに入ってから、結構な間、探しまわった。
……でも、どうしても泉川の姿を見つけることが出来ずにいる。
もう、なんだかんだで結構な時間が流れてしまっていた。
(もしかしたら、もう泉川はトゥモロー・パークから出ちまったのかもしれないな……)
そんな憶測が、否が応にも俺の脳裏をよぎり続ける。
(でも、もしかしたら、まだトゥモロー・パーク内に居るかもしれない……)
その想いだけが、俺をトゥモロー・パークに居続けさせていた。
ふと見上げると、空はもう茜色に染まっていた。
道に沿うように設置されている常夜灯も、すでにその活動を開始している。
「ホント、どこ行っちまったんだよ……」
疲労感と、未だに泉川を見つけられないでいる現状から、思わずそんなことを呟きながらモニュメントに寄りかかって座りこむ。
モニュメントから伝わる冷たさが、何だか余計に気持ちを沈ませているように思えて、つい深い溜め息を吐いてしまう。
――――やけに静かだった。
そのあまりの静けさがやけに気になり、ゆっくりと辺りを見渡す。
すると、何故か周囲には人の姿が全く見当たらなかった。
まだ閉園時間ではないのに、何でなんだろうか。
そう思っていると、遠くから砲音のような音が聞こえてきた。
規則的に聞こえてくる音。……多分、パレードかなんかでも始まっているんだろう。
……なるほど。皆、パレードを見に行っているのか。
(ん? ということは、もしかしたら泉川も見に行ってるかも……)
なんて思いながらも、そのパレードの中を探しまわるくらいなら、はなから出入り口で待っていた方が利口だと気付き、すぐにそのことを頭から切り離す。
とりあえず、今は少し休憩したかった。
今日はこれまで、とにかく疲れてばかりだったから。
(泉川も疲れただろうなぁ。危うくキスまでするところだったし。
……でも、泉川……何であの時、あんな微笑を見せたんだろう?
あれは、どう見ても無理矢理作ったものには見えなかった……。
それに、あの俺の前から走り去っていく前に言った言葉も……。
――――『香織って呼んでくれないんだね』って……どういう意味なんだよ。
香織って呼んでほしいってこと……か?
でも、もしそうだとしても、何でそんなこと……。
……あぁ! わからねぇ!!)
――疲れも相俟ってか、思考は俺に苛立ちしか与えてくれなかった。
もう、何か気持ちが爆発してしまいそうな勢いだった。
だから…………なのかもしれない。
「ホントに……どこに行っちまったんだよ、香織〜!!」
――――叫んでいた。
無意識のうちに……と言っても過言ではない。
それくらい、何の考えもなく叫んでいた。
こんなこと叫んだって、何の意味も無いっつ〜のに――――
「…………ここに居るよ。……翔羽」
――――幻聴……だと思った。
それが、あまりにもタイミング良く聞こえてきた声だったから。
でも……確かに聞こえてきた。
――まぎれもなく、泉川の声だ。
「どこだ! どこに居るんだよ!?」
思わず立ちあがり、叫びながら辺りを見渡していた。
しかし、その姿はどこにも見当たらない。
おかしい。声は確かに聞こえてきたのに、その姿が見当たらないなんて。
そう思ったが、次に聞こえてきた声で、その理由は明らかになった。
「モニュメントの……反対側」
「えっ?」
ゆっくりと、俺はモニュメントの反対側に移動する。
――するとそこには、うつむきながらモニュメントに寄りかかっている泉川の姿があった。
間違い無く、泉川だ。
泉川は呆然としている俺を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「……ゴメンナサイ。こんなつもりじゃ……なかったの」
「じゃあ、何でこんなこと……」
俺がそう返すと、泉川は言いにくそうにしながらも、その答えを語り出した。
「……まだ、翔羽のことを……彼氏だと思っていたかったのよ。……例え偽者であっても、今日だけはカップルでいたかった。今日、一緒に過ごしている間に……翔羽は私にそう思わせてくれたのよ」
「……………」
「……だから、あの時『泉川』って呼ばれて、ちょっとショックだったの。あぁ、もうこれで終わっちゃうんだって思って。でも……やっぱり嫌だった。だから……逃げちゃったの。トゥモロー・パークに居る間は、まだ私と翔羽はカップルなんだって、思っていられるから」
淡々と話しながらも、表情を曇らせたままうつむきだす泉川を見ていると、何だかどうしようもない切なさを覚えた。
泉川が何でそういう風に思ったのか。それが、何となくわかった気がする。
……きっと篤史とのことを、本当の意味で決着づけたいと思っていたんだ。
もし、それが泉川のためになるなら――――
――俺がするべきことは、決まっている。
「なぁ、とりあえずここに居てもしょうがないし、どこか違うところに行こうぜ。……な、香織」
泉川はそんな俺の言葉を聞くと、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに表情を歪ませて目に涙を溜めていた。
そして、ゆっくりと、でもしっかりと手を繋いでくる。
「ゴメン……ワガママ言って。私……私、ホントにバカだった! 一方的に篤史のことを悪者にしたててたけど、そうじゃなかった……」
「……………」
「私……わかったのよ。……篤史が先輩と一緒に離れていくときに言ってくれた言葉で。アイツだって、何にも考えずに行動してたわけじゃないって。ちゃんと……私のことも考えてくれてたんだって! わかったのよ……」
泉川の表情は、その弱々しい声質とは違って明るいものだった。
何かふっきれたような、スッキリしたような、そんな風に思える笑顔。
きっと、泉川なりに一連の出来事を受けとめることが出来たんだろう。
「あぁ、そうだな。……さて、まだ時間はあるし、どこに行きたい?」
俺は、自然と微笑みながら、そう言っていた。
泉川は俺の言葉を聞くと、溜まっていた涙を拭ってから、笑顔でサッとある場所を指差した。
「私、観覧車に乗りたい!」
そしてそう言うと、繋いでいた俺の手を引っ張って、観覧車の方へと走り出す。
気が付けば俺は、それまでに溜まった疲れなど忘れて、泉川に身を委ねていた。
すでに太陽は完全に沈みきり、見上げれば宵空が一面に広がっていた。
そんな宵空の下、俺と泉川は観覧車の中で、互いに見合う形で座っていた。
まだ観覧車に乗り込んでから大した時間は経過していないが、会話が少ないためか、何だか結構な時間が経過しているように錯覚してしまう。
でも、けして『気まずい雰囲気』というわけではない……んだと思う。
観覧車に乗ってから泉川の表情は、ずっと変わらずの笑顔だから。
そんな泉川の笑顔を、俺は直視することが出来ずにいた。
……何故か泉川は、ずっと俺を見つめ続けているんだ。
そんなに見つめられたら、何だか恥ずかしくなるじゃないか……。
「……ねぇ」
そんな俺の心境を知ってか知らずか、泉川は突然、目のやり場に困りながら外の景色を眺めている俺に話しかけてきた。
「な、何?」
「翔羽は……もし、あのとき先輩が声を掛けてこなかったら、私に……キスしてた?」
俺は、その突然な言葉に、動揺を隠せずにいた。
外に向けていた視線が、強制的に泉川の方に向けられる。
「なっ!? 何言ってんだよ、急に。そんなこと――」
動揺の中、何とか言葉を返し始めるが、それは完結することなく、泉川の追撃の言葉が放たれた。
「私は……しても良かったんだよ」
俺は……思いっきり目を見開いていた。
何が……言いたいんだよ。
泉川の表情がやけに大人っぽいものに見え、より動揺の色合いが増す。
瞳が、こころなしか潤んで見える。
唇が、妙に艶やかに見える。
――それは、俺が始めて見る泉川の姿だった。
「ま、またそんな冗談言っ――」
――目の前に……ホントにすぐ目の前に、泉川の胸元があった。
そして、額に感じる、暖かさと柔らかさ。
泉川の唇が、確かに俺の額に触れていた。
「お、おぃ!?」
「ふふ、ビックリした?」
「ビックリしたって……」
「……今日一日、私のために頑張ってくれたお礼! ……嫌だった?」
その言葉に返答する余裕なんて、今の俺には全くなかった。
もう、頭の中が真っ白だ。
観覧車の中という、こんなにも狭い密室の中で、こんなにも接近している二人。
こんな状態の中、冷静でいられる方がおかしいよ。
泉川は、俺が何にも言葉を返せないでいることを違った意味で解釈したのか、表情を不安そうなものにして呟き出す。
「嫌……だったの?」
今度はその言葉に、何とか首を横に振って返す。
多分、表情は呆然としたものなままなんだろうけど。
泉川はそんな俺の反応を見てホッとしたのか、表情を笑顔に戻して更なる行動に移った。
俺はもう、泉川に成されるがままだった。
「良かった。じゃあ、次は本番――」
――そう、それはまさしく本番だった。
視界は肌色によってふさがれ、そして……唇も、唇によってふさがれていた。
鼓動の高鳴りが、治まらない。
肌に感じる呼気が、この現状をよりリアルにしている。
そしてなにより、重なり合っている唇から感じる柔らかさ。
……こんな状態の時に浮かんでくるのも何か変な感じがするけど、何故か日奈子とキスをした時に感じた柔らかさが想起された。
――その柔らかさは、やはり異なるものだった。
泉川の唇の方が、よりふっくらしているように感じる。
俺の頭の中は、もう唇の話題で持ちきりな状態に陥っていた。
他のことに意識を逸らすことなど、それこそ出来なかった。
……それくらい、しっかりと、そして長いキスだった。
「なん……で?」
唇が離れ、独特な雰囲気が漂い始めた中、ようやく出すことが出来たのはそんな呟きだった。
俺は驚きと焦りに支配され続けていたが、泉川は何事もなかったような、ケロッとした表情を見せていた。
「何でだろう。私も、よくわからない。……でも、何となくしたくなったってゆ〜か……まっ、役得だったでしょ?」
すでに元いた座席へと戻っている泉川は、そんな言葉を言ってのけている。
俺はその言葉に対して、何の言葉も返すことが出来ずにいた。
(『役得』って……。そういう『想い』のこもっていないことは、泉川自身が一番嫌いなんじゃなかったのか? だから、篤史とのことでも傷ついていたんじゃなかったのか?)
考えれば考えるほど、泉川が何でこんなことをしたのかが、どんどんわからなくなっていった。
「……香織は……平気なのか? その……篤史と付き合ってた時に色々あったって言ってただろ? ……身体を求めてきたことが、すごく嫌だったって。それなのに……」
俺は、真剣な表情でそう尋ねた。
泉川がどういった気持ちでキスをしたのか、どうしても知りたかったんだ。
「翔羽は……私の身体目当てで彼氏のフリをしてくれてたの?」
泉川は穏やかな表情を見せながら、優しい口調で返してきた。
俺はそれを、慌てて否定する。
「ち、違う! そんなことっ!!」
「ふふ……でしょ。だから、全然嫌だとは思ってないよ。それに……さっきのは『求められた』んじゃなくて、私から『求めた』んだから。……自分から嫌なことをしたりなんか、しないよ」
……何だか、その言葉と、それを放った泉川の瞳が、全てを語っているように思えた。
その語られた内容の意図は、全然理解出来ていないけど。
でも、そう思えるくらい、その言葉と瞳に特殊な『力』を感じたんだ。
泉川の表情を見た俺には、もうこれ以上そのことについての質問を向けることなど出来なかった。
――その屈託のない笑顔が、俺の気持ちを鎮める鎮静剤になっていた。
「……なぁ、変なこと聞いちまうけど、何で……香織は『偽者だとしても、俺とまだカップルでいたい』なんて思ったんだ? ……あっ、べ、別にそれが嫌だってわけじゃないぞ! ……ただ、俺なんてまともにデートもしたことない男だし、それに俺、そんなに香織の役に立ててなかったと思うし……」
気持ちが鎮まったおかげか、俺はずっと気になってことをすんなりと言葉にして放つことが出来た。
……わからなかったんだ。
何で泉川が、こんな俺と一緒にいたいと思ったのかが……。
泉川は俺からの質問を聞くと、何故か控えめに声を出して笑い出した。
「お、俺、何か変なこと聞いたか?」
不安になって、思わずそう付け加える。
「あ、ゴメン。別に変な意味はないの。ただ、翔羽ってメチャクチャ鈍感なんだな〜って思って」
「は? ……鈍感って?」
「ふふ、そ〜ゆ〜のは自分で気付かなきゃダメなの! って、こっちも気付いてもらえるように努力しなきゃいけないんだけどね〜」
「はぁ?」
泉川が何を伝えたいのか、俺にはサッパリわからなかった。
『鈍感』って……。そんなこと言われても、わからないものはわからないのに。
そんなこと言うくらいなら、素直に教えてくれれば良いじゃないか。
……でも、『自分で気付かなきゃダメ』って言うくらいだから、教えてはくれないんだろうな。
そういえば、前に由紀にも似たようなことを言われた気がする。
俺って……そんなに鈍感なのかな……。
少なくとも、俺が泉川や由紀が伝えようとしていることに気付くのには、もう少し時間がかかりそうだ。
観覧車の中で会話が途絶えてからは、心地良い沈黙状態が続いていた。
俺と泉川、二人ともが黙っている状態でも、その場の雰囲気はけしてきついものにはならず、むしろ穏やかな空間を形成している。
もちろん、全く緊張感が無くなったというわけではない。
でも、とりあえず一つの『峠』は越えたという実感を、素直に感じ取っていたんだ。
「今日はホントにありがとう、翔羽。……これ降りたら……帰ろ」
泉川は、ゆったりとした空気の流れにまかせるように、そう言葉を囁き流す。
窓外に広がる夜景は、頑張った二人へのプレゼントなんじゃないかと思えるほどに、綺麗なものだった。
「ふぁ〜〜あ」
1−B教室前の廊下。
そこで俺は、今の体調を主張するかのような大きなあくびをしていた。
とにかく眠かった。
結局、昨日は家に帰ってすぐ、崩れ落ちるかのように眠りについた。
相当、疲れていたんだろう。
朝起きたのも結構遅い時間で、昨日のことについてちょっかいを出そうとする姉貴を何とか振りきって、慌てて学校に向かう始末。
……まぁ、それでもキッチリ朝ご飯は作らされたけど。
とにかく、そんな状態だから眠気とダルさが身体中を巡っているんだ。
口に手を添えて再びあくびが出るのを抑えながら、ゆっくりと教室のドアを開ける。
すると、すぐ目の前に泉川の姿を発見。
泉川は、俺の姿に気付くと眠たそうな表情で話しかけてくる。
「おはよ〜翔羽。昨日はホントにありがとう。……でも、かなり疲れたね〜」
「あぁ、そうだな〜。香織のおかげに走りまわる羽目にもなったし。もう、足なんか筋肉痛になってるよ」
軽く手を上げながら、自然にそう返す。
そう、それは俺と泉川にとっては、いたって自然な会話だった。
――しかし、周りに居たクラスメイトたちにとっては、思いっきり不自然な内容だったようだ。
「『翔羽』? 『香織』? ……橘と委員長、何だかやけに親しくなってるじゃん。……さては、何かあったな〜!」
それは、偶然近くに居た由紀の言葉だった。
軽く睨むような表情で、詰め寄ってくる。
由紀の言葉を聞いた他のクラスメイトたちも、興味津々といった様子で、一斉に視線を向けてくる。
(……しまった。つい昨日の流れのまま、名前で呼んじまった)
困惑しながら、泉川の方に視線を向ける。
しかし、泉川はそんな表情など一つも見せていなかった。
それどころか、困惑した表情を見せる俺を見ながら、何とか笑いをこらえている様子。更に、
「まぁね〜。昨日は翔羽に色々お世話になったっていうか……ねっ」
そんな、より疑惑を抱かせるような言葉を言い放つ。
「お、おぃ!」
慌てて叫ぶが……もう遅い。
「ど、どういうことだよ!? ……何か怪し〜なぁ」
案の定、由紀は鋭い睨みを俺に向け始める。
(か、勘弁してくれよ、朝っぱらから……)
ホント、まだ学校に来たばっかりだというのに、思いっきり気が滅入っちまうよ。
「べ、別に大したことじゃないから、気にすんなって。……ほら、もうすぐホームルームも始まることだし、由紀も早く席に着こうぜ。なっ」
何とかそんな言葉を返して、その場を乗り切る。
そして、何とか無事に自分の席に辿り着いた。
大きな溜め息を吐きながら、机に顔をうずめる。
(全く泉川のヤツ、ど〜ゆ〜つもりなんだよ。……あんな不信感を煽るようなこと、言ったりして)
ホントに、勘弁してもらいたいよ。
「……何か、すっご〜く疲れてるみたいだねぇ。泉川さんもかなり疲れてるみたいだしぃ」
声に気付いて右を向くと、そこには着席した日奈子の姿が。
日奈子は微笑を見せながらも、どこか引きつったような表情になっていた。
……機嫌でも悪いんだろうか。
「あ、あぁ。まぁ……ちょっと疲れが取れなくてさ。……藤谷さん、何かあったの? 何か機嫌悪そうに見えるんだけど」
つい気になって聞いてみるが、日奈子は余計にふてくされたような表情になって、ぶっきらぼうに「何でもないっ!」って言ったっきり、俺から視線を外してしまった。
(お、俺、何か機嫌を損ねるようなことでもしたのか?)
なんてことを思いながらも、更に状態が悪化するかもしれないと思い、これ以上追求することは止めておく。
少しすると、ホームルーム開始のチャイムが鳴り、教室に耶枝橋先生が入ってきた。
委員長である泉川の号令で礼を終えると、耶枝橋先生は淡々と話し始める。
――そして、俺は頭の中から完全に消滅していた事実を知らされることになる。
「おはようございます。さて、今日は後期中間テストの一日目です。皆、ちゃんと勉強してきた?」
(あっ!!)
…………そうだった。
今日から三日間は中間テストの期間だったんだ。
ホント、すっかり忘れてた。
昨日のダブルデートのことで頭の中はいっぱいだったから、テストのこと考えてる余裕なんてこれっぽっちもなかったんだ。
さ、最悪だ……。
案の定、テストの出来は最悪。
一昨日泉川に教えてもらった内容は、もろくも俺の頭の中から完全に消滅してしまっていた。
テスト終了後、机の上に身体を寝かせてうなだれている俺の姿を見た泉川は、
「ふふ、テストダメだったみたいね、翔羽。……また勉強、教えてあげよっか〜?」
なんてことを、余裕を持った声で言ってくる。
「ハァ。……泉川はテスト、バッチリみたいだな。……っつ〜か、名前で呼ぶのは止めておいた方がいいんじゃないか? また変な風に勘繰られるぞ?」
俺が体勢はそのまま、視線だけを向けてそう呟くと、泉川は微笑みながらハッキリと言った。
「私は勘繰られてもかまわないから。だって…………」
「……だって?」
「昨日、一日、翔羽と一緒に居て、すっごく楽しかったからさっ!」
泉川はそう言うと、呆然としている俺の手を握って、更に言葉を続ける。
「……で、勉強どうする? 明日と明後日のテストも悲惨な結果になりたいって言うんなら、無理には薦めないけど」
『テスト』という言葉で、何とか我にかえる。
「……お、お願いします。……泉川センセ」
「よろしい。じゃ、早速これから勉強よっ!」
泉川は言うのと同時に、自分の席に向かっていって、数種の教科書を持ってくる。
そして、俺の机の前に並べると、何とも楽しそうに教科書を開いて説明をし始めた。
その楽しそうな表情は、一昨日に勉強を教わった時には見られなかったもの。
俺の視線は、そんな泉川の、絶えず動く唇に否が応にも向かってしまう。
やっぱり、昨日のキスのことが頭から離れないでいるんだ。
泉川はそんな俺の視線に気付いたのか、
「……ここでする?」
「な、ななっ!?」
思わず素っ頓狂な声で叫んでしまっていた。
「あはは! 冗談だって」
「ハ、ハハ、そ、そうだよな」
「うん。……さすがに教室の中じゃ恥ずかしいしね」
「……………」
「あはははは! だから冗談だって〜。ホント、簡単に引っかかってくれて面白いね、翔羽は」
「か、からかうなよ」
「はいはい。……でも、そう思うんなら私の唇ばかり見てないで、ちゃんと説明聞いてよね〜」
……もう、俺の顔は真っ赤になってるだろう。
昨日は何から何まで、ホントに忙しい一日だった。特に精神的な面で。
……でも、俺自身としては、とても良い経験になったんじゃないかって思う。
例え偽者であっても、カップルとしてデートをした。
女性と付き合ったことのない俺にとって、それはまさに未知の領域だった。
けど、泉川のおかげで、少しは身近なことに感じられるような気がするんだ。
それに、『形』も残った。
それは俺にとって、ちょっとクラスメイト達の前では見せるのが恥ずかしいもの。
……でも、記念になる大事なもの。それは――――
スラックスのポケットから、携帯電話を取り出す。
その背面には、ある一つのものが貼られている。
――それは、トゥモロー・パークで『香織』と一緒に撮ったプリクラ。
泉川に、無理矢理貼り付けられたものだ。
やっぱり、あまり他の人には見せたくない。でも――
なんだかんだいって、俺は結構このプリクラを気に入っている。
――プリクラに写る俺の顔は、何だか仄かに赤くなっているように見えた。
===あとがき=====
お待たせいたしました。
第23話、公開です。
泉川編の最終話、いかがだったでしょうか。
翔羽にとっては、もんのすご〜〜く長く感じた一日だったでしょうね(笑)
基本的には、泉川に『ちょっとだけ恋愛の先輩ぶり』を発揮させようとしたつもりです。
泉川の方が、翔羽をリードする。
そんな感じに……なってたかな?(汗)
まぁ、相手が翔羽だったら、誰でもリードする側になってしまいそうですけどね(笑)
とりあえず、相変わらずの鈍感ぶりは表現できたので、良しとしよっと。
さて、次話ではいったん『〜編』から離れる予定です。
まぁ、すぐに戻る予定でもありますけど(笑)
最近の、翔羽の昼休みの状況を描いていく予定。
予定ばかりですけど、どうか見放さずにいてくださいませ〜m(__)m
2004/08/01 12:37
最近「コメディっぽく無くなってる」という感想をいただき、「確かにそうだよなぁ」と納得してしまっている状態にて(滝汗)