……俺はこの状況をどう打開すれば良いのだろうか。
それをいくら考えても、答えは全く浮かんでこない。
それほどの危機的状況下に立たされている。
望んでもいないのに五感が活性化されていく。
絶えず視覚は前方を捉え、聴覚はどんなに小さな囁きでさえも感知する。
俺自身から発せられることのない、ある種独特な匂いを残酷なまでに認識させる嗅覚。
そして、実際には触れていなくても、絶えず周囲から届く『存在感』が俺の触覚を刺激する。
唯一、俺にとっては正常な動作をしているはずの味覚だが、少し前から妙な苦味を覚えるのは気のせいだろうか。
とにかく、その全てが俺を意識の領域から外へと追い出そうとしていた。
先ほどから何度となくその領域の境を行ったり来たりしている。
卓上に片肘をつき掌で頭を固定している構図を見ると、外観的には居眠りを必死にこらえているように見えるだろうが、実際はそんなに気楽なものではない。
「あの…寝ちゃダメだよ」
不意な右側からの声。登校中、とんでもないかたちで知り合った女子生徒――藤谷日奈子。
俺にはもはや、その声に答える気力さえも残ってはいなかった。
ただ無言で、何とか右手でOKサインを送ろうとする。
しかし、それすら上手くいかない。
日奈子は俺の様子を見て、もはや熟睡寸前なんじゃないかと解釈したのか、そっと俺の肩に手を乗せ俺の名前を呼びながら軽く揺らしてきた。
その瞬間一気に全身の力が抜け、頭を支えられなくなり大きな音を立てて顔面が卓上に衝突する。
相当の衝撃を受けているはずなのだが、痛みを感じることは全く無かった。
朦朧とする意識の中、日奈子の声がぼんやりと聞こえてくるが、何と言っているのかは把握できない。
辺りのざわめきをかろうじて確認することが出来たのを最後に、俺の意識は完全に途絶えた。
俺が女子生徒からの突然な質問に悩まされたその後、耶枝橋先生の提案によって俺を含めた四十一人で席替えをすることになった。
まず最初に全ての席に番号をつける。そして全ての番号の書かれた紙切れを作り、上面に手首が入る程度の穴をあけた箱の中にその紙切れを入れる。
これで『くじ引き』の完成。
席替えはこのくじ引きによって行われた。
そして、その結果……。
「はい、じゃあ紙に書いてある番号と同じ席に移動してくださ〜い」
先生の掛け声と共に、生徒が一斉に動きだす。
そんな中、俺はというと教室の隅に一人逃れようとしていた。
この混雑の中に紛れて自分の席を目指すなんて事をしたら、いつ女子生徒に接触して気絶してしまうか分かったもんじゃないからだ。
しかし、俺が引いたくじに書いてあった番号の席は偶然にもすぐ近くにあったので、一応周囲を確認してから素早くその席に着席する。
俺が座った席は、窓際に面した列の前から三番目の席。左を向けば窓があって、広がるグラウンドや体育館、更には学校の敷地外の景色も見える。
今日は始業式がメインな日で授業が無いため、窓外に見えるグラウンドは閑散としていた。
陸上トラックを形成するために引かれたものと思しき石灰による線が、夏休みが明けてすぐだというのにくっきりと白く見えている。
陸上部かなんかが夏休み中も精を出していた証拠だろう。
窓外から視線を教室内へと戻すと、すでに全員がくじ引きで決定した席に着席していた。
俺はそのことを確認すると同時に、自分が置かれている状況を痛感することになる。
(こ、これはマズイぞ……)
それは、このクラスの環境を考えれば大して偶然的な事態ではないが、俺の今まで置かれていた環境から見ると明かにかけ離れた状況だった。
左側には席が無いから良いが、前後右…更に言えば斜め右前と斜め右後も……女子生徒の席となっていた。
しかも右の席には藤谷日奈子が座っている。
右側を確認しようと顔を向けると、藤谷日奈子が微笑を浮かべながら俺の方を見て…いるように見えた。
彼女は、突然俺が自分の方を向いたことに驚いたのか、目を見開き慌てて顔を反対方向に向ける。
……何となく気まずい感を覚える。
だが、彼女には悪いがその気まずさは現状の危機感によって瞬時にかき消されていった。
視線を窓外に戻し、グラウンドを見下ろす。……その閑散さが、やけにいとおしく思えた。
目を開くと、なんとなく見覚えがあるような光景が一面に広がっていた。
ゆっくりと上体を起こし、ここが保健室であることを確信する。
保健室ということは、あの心臓に悪い先生がいるわけで……。
「おっ、割と早いお目覚めだこと♪」
右側から唐突に声が聞こえてくる。
しかし、その声は予想していたものよりも聞き慣れたもの。そして、聞き間違えようのないものだった。
驚いて右側を向くと、やはりそこには姉貴――橘 舞羽の姿が。
珍しく普通な格好――肩部に校章の刺繍がされている白い半袖ブラウスにシグナルレッドのリボン、アンバーを基調としたチェックのスカートという、佐々原高校の女子学生夏季用制服を着用している姉貴は、ベッド上で驚きの表情を見せる俺に向けて、『してやったり!』といった感情に満ち溢れた笑みを見せつけている。
「……何で姉貴がここにいるんだよ」
「何でって、私ここの学生だもん。全然おかしくなんかないじゃない」
「………は?」
あまりの衝撃に、頭の中が一瞬真っ白になる。
姉貴が佐々原高校の学生?
「『は?』じゃないわよ。…私がここにいるのは、偶然耶枝橋先生と真中先生が翔羽を保健室に運んでいくのを見かけたから。だから私も付き添って来たの」
「……そういえば耶枝橋先生はともかく、真中先生は?」
言いながら周囲を見まわすが先生の姿は見当たらない。
「あぁ、ついさっきまではいたんだけど何か用事があるみたいで、私に翔羽のこと頼んでどっかにいっちゃった」
「そ、そうなんだ」
そんなんでいいのかよ真中先生……。
「それにしても、転入日にいきなり気絶しちゃうだなんて…ホント、翔羽も大変ね〜」
「そりゃあんなに女子生徒がいたら気絶もしちま――」
そこまで言って、俺はと〜っても重大なことに気が付く。
「…ちょっと待て。姉貴はこの高校『男女比9対1』だって言ってたよなぁ。……どこが『男女比9対1』なんだよ!? 男女比『9対1』どころか男女比『1対9』じゃないか!!」
「えっ、翔羽のクラスだけじゃないの? ……他のクラス見てみた?」
「いや……見てねぇけどさ」
逆に質問され、言葉に詰まってしまう。
確かに俺は自分のクラスの状況だけで男女比『1対9』と決め付けていた。
他のクラスの状況は全く確認していない。……というより、確認しに行く余裕などこれっぽっちもなかった。
でも……一クラスだけ『男女比1対9』なんていうこと、果たして有り得るのだろうか?
そう考えていると案の定、
「ちょっと、真剣に考えないでよ。あのね、確かにこの高校は『男女比9対1』の学校なんかじゃないわ。それどころか、翔羽が言った通り『男女比1対9』の学校よ。…何せ去年までは女子高だったんだから」
……最悪最低の答えが返ってきた。
瞬時に顔面蒼白になっていくのが、嫌味なほどに実感できる。
……冗談じゃない。なんで『女性恐怖症』の俺が、こんな『男女比1対9』の高校に通わなければならないんだ。
こんなの、ネズミがネコの集団の中に閉じ込められている状態と大差ないじゃないか。
俺が頭を抱えていると、姉貴はやけに優しい口調で更に情報を付け加え始める。
「翔羽にとっては凄く嫌な環境だと思うけど……これも翔羽のことを思ってのことなのよ。あなたに『女性恐怖症』を克服してもらいたいから……。それに、ちゃんと父さんとも話し合って決めたことなのよ」
「親父と?」
「えぇ。……翔羽、あなたはずっとこのままでいいと思ってるの? 私も、父さんも凄く心配してるの。これからずっとこのままでいたら、いずれまともに生活できなくなるわよ」
……そんなことは分かっている。でも、今までさんざん姉貴に抱きつかれてきたけど、一向に完全に慣れる気配が無いんだ。
「俺だって……出来ることなら『女性恐怖症』を克服したいさ。でも…克服出来そうな気が全くしないんだ」
俺はうつむきながらもはっきりと答える。
「……お医者様も『身体的な問題ではなく、精神的な問題でしょう』って言ってたじゃない」
「確かにそうだけど……不安なんだよ」
うつむいていた顔を…視線を姉貴に向け、言葉を続ける。
「中学の時『女性恐怖症』のことがバレて、いろいろ嫌がらせにあったの知ってるだろ。……嫌なんだよ。またそういう状況になるのが。……ここでバレたらもっと悲惨なことになりかねないじゃんか」
そう、これが今一番気にかかっていること…そして、一番恐れていることだ。
ここでバレたら、すぐにでも女子生徒に囲まれてしまう可能性がある。……嫌がらせで。
「でも……少しだけでも頑張ってみるつもりはない?」
姉貴は本当に俺のことを心配してくれている様子だった。
その証拠に、姉貴は瞳を潤ませている。
……嬉しかった。
普段はただのコスプレ好きで変な姉貴だけど、やっぱり俺の『姉貴』なんだ。
「……そうだな。正直あまり自信は無いけど、もう少し頑張って――」
俺が姉貴に決意の言葉を告げようとしていたその時、突然背後にあるドアの向こうから声が聞こえてきた。
「あれ? …藤谷さんこんなところで何してるの? ……あっ、そうか。橘君の様子を見に来てくれたのね。だったらそんなところに立ってないで中に入っててくれればいいのに」
聞こえてきたのは保健室担当、真中先生の声。
……それはいい。何も不自然なことではないから。
しかし、確かに真中先生は言った。
――『藤谷さん』と。
俺が慌てて背後を向くと、ちょうどドアが開かれる途中だった。
そして、そこから入ってきたのは真中先生と……藤谷日奈子だった。
日奈子は真中先生に押されて、顔をうつむかせながら保険室内へと入ってきた。
そして、姉貴の方を向くと深々と礼をする。
姉貴はちょっと怪訝そうな顔をしながらも軽く会釈。
「えっと、橘君と同じクラスの藤谷日奈子っていいます。橘君には『いろいろと迷惑をかけちゃった』ので、謝りたくてきたんですけど……」
日奈子は姉貴に向かってそう言うと、視線の先を姉貴から俺へと変える。
姉貴は日奈子の言葉を聞くと、何やら理解したかのように微笑を浮かべた。
「とりあえず割りと早く意識が戻ってくれて良かったわ。…体調の方は大丈夫?」
真中先生のその問いに軽い会釈で答えると、先生は安心した様子で話し出す。
「そう、良かった。とりあえず、しばらくはゆっくりしてて良いから。私はまたちょっとここから離れなきゃならないけど、いつでも帰って良いからね」
真中先生はそう言うと、そそくさとドアから外へと出ていった。
とたん、保健室内は気まずい雰囲気に包まれていく。
日奈子は俺の方を向いたまま無言。……俺は目のやり場に困っていた。
我慢しきれずに姉貴の方を向くと、姉貴はゆっくりと口を開き始めた。
「……で、『女性恐怖症』の話の続きなんだけど――」
「お、おい姉貴!!」
……姉貴は何を考えているんだ?
何で部外者のいる前で『女性恐怖症』って単語を出してるんだよ!
……しかし、姉貴は何食わぬ表情で続ける。
「あら、大丈夫よ。多分…彼女はもう部外者じゃないみたいだし。……ね、藤谷さん?」
「…ごめんなさい。その…盗み聞きするつもりはなかったんですけど……聞こえちゃって」
俺は動揺を隠せなかった。
右側にいる姉貴の顔と、左側――ドアがある方向――にいる日奈子の顔を交互に見上げる。
姉貴の微笑みはそういう意味だったのか。
俺はようやく『藤谷日奈子に女性恐怖症のことがバレた』という重大なことに気付いた。
「…で、『いろいろと迷惑をかけちゃった』ってどういうこと? 一応、翔羽の姉として聞いておきたいんだけど」
「あっ、はい。その…登校中には偶然橘君とぶつかっちゃって気絶させちゃったし、さっきもホームルーム中に橘君の肩を揺すって気絶させちゃって……。本当にごめんなさい」
日奈子はそう言うと、俺に向かって頭を下げる。
――この人は俺にとってプラスとなる人だ。
俺は、本能的…というか直感的にそう感じていた。
彼女が何か悪いことをしたわけではない。登校中の事故は完全に俺の不注意だし、ホームルームの時の事だって、俺のことを心配して起こしたことなのは疑いようもない。
それなのに日奈子は、自ら俺に向かって頭を下げている。
けして『気が小さい』からというわけではないだろう。気が小さい人が、自ら進んで保健室にお見舞いに来たりすることはないだろうし。
……彼女自身の『気持ち』からの行動であるはずだ。
――俺は自然と表情を和らげていた。
「別に藤谷さんは悪くないよ。登校中のは俺の注意不足だし。っつ〜か藤谷さんこそケガなかった?」
「うん。私は大丈夫だよ。気が付いたら橘君が私に抱きついてる状態になっててちょっとビックリしたけど」
「そ、そっか……。ホント…こっちこそ悪かったな」
「ふ〜ん…抱きついちゃったんだ〜。…すでに随分と親密な仲になってるみたいね〜♪」
「あれは事故なんだっての!!」
「え〜、でも抱きついちゃったんでしょ〜♪」
「だから〜!!」
姉貴の言葉に、つい声を荒げてしまう。
……でも、何となくホッとする。
そこにいるのは、もういつもの姉貴だったから。
なんか、俺のことをやけに心配する姉貴なんて、調子が狂っちまう。
「…でも、良かったんじゃない? 案外、これは『女性恐怖症』を克服するチャンスかもしれないわよ♪」
「大きなお世話だっての! ……で、藤谷さん、『女性恐怖症』のことなんだけど、クラスの皆には……」
「うん、内緒にするから安心して」
日奈子の言葉を聞いて、ようやく一安心。
俺はゆっくりとベッドから下りて伸びをする。
「さて…じゃあそろそろ帰ろうか。…藤谷さん、俺、自分の自転車がどこにあるのかわからないんだけど……わかる?」
「あっ、うん。由紀と一緒に持ってきたから」
「由紀って…俺が質問攻めを受けてた時に話してきたショートカットの?」
「うん、そう。由紀が橘君を担いで学校まで運んでくれたんだから」
「そうなのか……」
いずれその由紀にも謝っておかないとな……。
「じゃあ行こっ」
日奈子はそう言うとクルッと回転してドアの方を向き、ドアを開けて外へと出ていった。
「……ふぅ。なんかこれからのことが思いやられるな」
俺はついそんなことを漏らしてしまう。
一度にいろんな事が起こりすぎて精神的にまいっているのかもしれない。
「まぁそう言わないで。藤谷さん結構良い感じの子だし、きっとこの学校のことも気に入るわよ」
姉貴はそう言って俺の肩をポンと叩く。
一瞬ゾクッとするが、相手が姉貴な分慣れていて気絶することはない。
「そういうもんかぁ?」
俺は、とりあえず適当に答える。
(ん? そういえば、姉貴はなんでこの学校を選んだんだろう…)
ふとそんな疑問がよぎり、それとなく姉貴に聞いてみる。
「えっ、それは……ここの制服可愛いんだもん♪」
返ってきたのはある意味当然な答え。
「そ、そんなんで決めたのかよ」
「『そんなんで』って、女の子にとって制服は学校を選ぶのに結構重要な要素なんだから〜♪」
「………はぁ」
ホントに呆れちまうよ、姉貴の考え方には。
でもまぁ……確かに改めて見ると可愛らしい制服かもしれない。
「……橘君?」
ドアの方からの声。
日奈子がドアを開け顔を見せている。
どうやら待たせてしまっているようだ。
「ゴメン、今行く。……姉貴、行こうぜ」
俺はそう言って、カバンを持ってドアの方へと向かう。
カバンの中身――教科書全般――はホームルーム中に机の中にしまっておいたので登校中よりはずっと軽くなっている。
姉貴も頷いて俺のあとに続く。
保健室から出てすぐに左折した先にある十字路を右折してしばらく進むと、正面には上り階段、右前には下駄箱群が見える。
迷わず下駄箱群の方へ。
下駄箱群は五列に分かれていて、ところどころに『何年何組』といったラミネートが貼られている。
「そういえば俺の靴は……」
言いながら自分の足を見る。
履いているのは当然上履き。白の生地とつま先部分に青いゴムといった、定番のものだ。
「橘君の靴もちゃんと下駄箱の中に入ってるよ」
日奈子はそう言って俺を1−Bの区域へと案内してくれた。
見ると、その区域の中に俺の名前が確かにある。
下駄箱を開けて中身を確認すると、そこには間違いなく俺の革靴が。
早速履き替え、日奈子と共に昇降口へ。
昇降口では姉貴がすでに靴を履き替えて待っていた。
ふと姉貴の靴を見て再び呆れてしまう。
それは日奈子も同じようで、姉貴の足元を見て口元を緩めている。
姉貴…学校にミュール履いてくるなよ……。
しかし姉貴は、そんな俺と日奈子の表情を見ても全く動じることがない。
それどころか、足を突き出して主張をする。
「結構、制服にミュールって似合うと思うんだけどな〜」
……姉貴は本気だ。
「あ〜そ〜だな〜。藤谷さん、行こうぜ」
「あ、うん」
今の俺には、姉貴の世界に付き合う気力など残っていない。
さっさと適当な言葉で流し、日奈子と共に自転車がある場所へと目指す。
「ちょっと翔羽〜! ……全くもぅ」
姉貴は不満を露にしながらも小走りで後をついてきた。
昇降口を出ると、目の前には学校の正門が姿を見せる。
鉄製のスライド式門は錆が無く、太陽の光を受け、無機質だが艶やかな光沢を見せ付けている。
右を向いて正門とお別れすると、正面にお目当ての駐輪場が見えてきた。
下駄箱と同じく学年・クラスで分かれている駐輪場は、厚めのプラスチックで出来た屋根付き。四列に分かれて設置されている。
基本的には一学年に一列用意されているようで、残りの1列は来客用、または緊急時用として設置されているらしい。
その駐輪場にはすでに殆どの自転車が無い。今日の日程が終わってから一時間以上経っているのだから当然といえば当然だろう。
俺は日奈子の案内で一年の列にあるB組のエリアへ。
そこには俺のマウンテンバイクが、ガランとしたスペースの中で一台孤立していた。
自分自身でやったことだが、思いっきり道路に倒してしまったので壊れてしまっていないか心配していたが、ところどころに小さな擦り跡があるだけで済んでいた。
ギアを変えてみる。……よし、問題無い。
「ありがとう。藤谷さんは自転車じゃ…ないよな」
登校中のことを思い出し、つい苦笑を浮かべてしまう。
日奈子も苦笑を浮かべながら頷く。
「それじゃあ…行くか。姉貴、帰ろうぜ」
俺がそう言って姉貴の方を向くと、姉貴は珍しく焦った表情を見せていた。
駐輪場の屋根を支えている鉄柱をコツコツと叩きながら、なんとか表情をいつも通りの笑顔の戻そうとしている。
「あっ、私は自転車じゃないから♪」
「……自転車じゃない?」
俺は不信感いっぱいに単純明快な疑問を投げかける。
……どう考えてもおかしい。
家から出るとき、俺は姉貴の「行ってこ〜い♪」に送られてきたはずだ。
それに、俺に朝食をねだるくらいだからその時はまだ朝食を取っていなかったはず。
『一日における楽しみベスト3』の中に『食事』は欠かせないと断言している姉貴に限って、朝食を抜くという現象は起こりえない。
俺はそれほど時間に余裕を持って家を出たつもりはないから、もしゆっくり朝食なんか取ってたとしたら絶対に登校時間に間に合っていないだろう。
「遅刻したのか?」
俺はそう結論付けたが、姉貴は小さく首を振って否定する。
……やっぱりおかしい。
もしそれが本当だとしたら、いったいどうやって姉貴は遅刻せずに学校まで来たというんだ……。
「じゃあ……いったいどうやって来たんだよ?」
「………原付で来ちゃった♪」
姉貴は軽く溜め息を吐いた後、そう言って笑いながら舌を出す。
俺は驚きよりも呆れの方が強く、ガクッと頭を垂れながら深い溜め息を吐いた。
「原付って…校則違反じゃないかよ」
「まぁそう言わないで。見つからなきゃいいんだから〜♪」
「『見つからなきゃいい』って、そういう問題じゃないだろうが…」
「とにかく、私は原付に乗って帰るから、翔羽はちゃんと藤谷さん送ってくのよ〜♪」
「えっ、い、いいですよ〜」
日奈子はそう言ってるが、
(やっぱ、それくらいはしないと申し訳ないよなぁ。…色々迷惑かけてるし)
そう思い、素直に了承する。
姉貴は俺が了承するのを確認すると、満足そうな笑みを浮かべて正門の方へと一目散に走っていった。
「……ふぅ。何で姉貴はいつもあぁなんだよ……まったく」
俺は、姉貴の姿が見えなくなったのを確認してからそう呟く。
でも、これはけして悪態を吐いているわけではない。
その証拠に――俺は微笑を浮かべている。
「良いお姉さんだね」
「『良い』? …『面白い』の間違いじゃないの?」
日奈子の言葉に、俺は笑顔で冗談混じりにそう答える。
日奈子も俺の笑顔につられたのか、声を出して笑い出す。
――何だろう…この感じ。
どう考えても不自然な状況なのに……妙に自然だ。
日奈子は女性。……それは間違いない。
それなのに……俺は今、こんなにも自然に日奈子と話すことが出来ているじゃないか。
『この人は俺にとってプラスとなる人だ』
そんな俺の直感は間違ってなかったことを改めて実感した。
「それじゃあ行こうか」
俺はマウンテンバイクのスタンドを蹴り上げ駐輪場から出そうとする。
しかし、ご丁寧に鍵を掛けてくれたらしくマウンテンバイクを移動させることが出来ない。
「あっ、ちょっと待ってて」
その様子を見た日奈子は、何かを思い出したかのようにハッとした表情でカバンの中を探り始める。
そして数秒後、カバンの中からマウンテンバイクの鍵を取り出した。
「ゴメン、すっかり忘れちゃってた」
「サンキュ。コイツは俺のお気に入りなんだ。おかげで盗まれずに済んだよ」
俺に気を使ってくれているのか、手と手を触れさせることなく鍵を受け取り、前輪につけられた錠前を解除する。
マウンテンバイクの自由が確保され、俺と日奈子は正門から学校の外へ。
正門を出ると、左右に続く町の大通りと直進する道が。
周辺にはコンビニや様々な専門店、学生達の憩いの場であろうファーストフード店などが建ち並び、平日にもかかわらずそれなりの賑わいを見せている。
マウンテンバイクを押しながら直進していくと、周囲の様子は店の類から民家へと姿を変えていく。
新築の家が多いのは、海が近いことで人気を得ている場所だからだろうか。
しばらく進むと例の十字路が見えてきた。
十字路の先は下り坂になっているので、前方には広がる海が見えている。
十字路に到着し、赤信号で歩みを止める。
「ありがとう。ここまででいいよ」
日奈子はそう言うと、申し訳なさそうに俺の方を向く。
「ごめんね。わざわざ送らせちゃって…」
「いや、気にしないでいいよ。俺の方こそ新学期早々、色々迷惑掛けちゃって悪かった」
「そんな…。私の方こそ迷惑掛けっぱなしで……」
俺が頭を下げているのを見ると、日奈子は焦ったように手を振って自分の非を主張する。
この様子だと、いくら俺が非を主張し続けても受け入れてくれそうにない。
思わず笑みがこぼれる。
「…じゃあ、お互い様ってことにしとこうか」
日奈子はその意見に満足はしていない様子だったが、受け入れた証拠として笑みを見せる。
「あっ、そうそう、念を押すようで悪いんだけどあのことはホントに内緒ってことで」
「…あっ、うん。もちろん誰にも言わないようにする」
その言葉を聞いてホッとする。
『女性恐怖症』のことがバレてしまったことは最悪だったが、バレた相手が日奈子だったのは不幸中の幸いだったと思う。
口は堅そうだし、何よりまだ会ってから大して経っていないというのに自然と話すことが出来る女性。
何故こんなに自然に話せるのか、自分でもよく分からないが。
「それじゃあ行くね。これからよろしくお願いします」
「あぁ、こちらこそよろしく。多分、学校ではあまり気軽に話せる相手は出来ないだろうから、この町のこととか学校のこととか色々教えてくれると助かる」
「うん。それじゃあまた明日!」
日奈子は元気よく答えると、俺に向かって手を振りながら右への道を走っていった。
俺は意識することなく右手を振っていた事に気付くと思わず苦笑。
信号を確認すると、マウンテンバイクに乗って直進を始めた。
登校時には立ちこぎで上ってきた緩やかな坂も今度は下り。
こぐのを止めて坂を下り、爽やかな潮風を全身に浴びる。
爽快な時間はあっという間に終わり、海沿いの道へと突き当たる。
左に曲がり、ひたすら直進。
今日起こった様々な事を思い出しながら進んでいると、大した時間を感じることなく我が家へと到着した。
見ると我が家の隣にある敷地にビニールハウスが建てられている。
外壁の部分に書かれている文字を見て、親父の仕事用――花を陳列、栽培するためのものだということを把握する。
――Flower Garden TACHIBANA。
これがうちの花屋としての名前だ。
ビニールハウスの中では親父が花を陳列するための台を設置している。
親父は俺の視線に気付いて、ビニールハウスから出てきた。
「おかえり、翔羽君」
「ただいま〜。…営業の準備は順調?」
「えぇ、おかげさまで。今日中には陳列台、全部設置できそうです。……それより、早速色々あったらしいじゃないですか翔羽君」
親父は笑顔で…しかもやけに嬉しそうだ。
学校でのことがバレてる? ……ということは。
「……姉貴だな」
「舞羽さん、すっごく嬉しそうに話してくれましたよ。『翔羽に女の子の友達が出来た』って」
「…友達っていうほど親しくはないって。ただ、わりと自然と話せるのは確かだな。…はぁ。それにしても親父も人がわりぃよ。……佐々原高校のこと、教えてくれたってよかったのに」
別に佐々原高校に通うのが嫌でこんなことを言ってるわけではない。むしろ、今後のことを考えれば自分にとっては良いことなんだと思う。
ただ、『男女比1対9』の学校だということに関して何の相談も無かったことにちょっとだけ苛立ちを感じてしまうんだ。
「『佐々原高校のこと』って……何の事ですか?」
だが、親父は全く予想していない答えを返してきた。
表情を見るかぎり、冗談で言っているわけではなさそうだ。
「『男女比9対1』じゃなくて『男女比1対9』だったってこと。……親父は知らなかったのか?」
「そうだったんですか? 私は全然知らなかったですよ。何せ翔羽君が通う高校のことは、殆ど舞羽さんに任せてましたから」
(あ…姉貴のやつ!)
俺は学校の保健室で姉貴のことを見直した自分を思い出し、心の底から思いっきり後悔した。
親父との会話を済ませ、苛立ちながらマウンテンバイクを駐車スペースの端に置く。
――すぐ近くに姉貴のカナリヤ色で統一された原付スクーターがあるのを確認すると、俺は壊れない程度にタイヤのホイール部分を軽く蹴ってやった。
この地に越してきて始めての登校日。
しかし、学校に到着する前にいきなりのアクシデント。
気付いた時には保健室だったし、学生の比率は『男女比9対1』だと思ってたのに実際は『男女比1対9』。
変な質問攻めは待ってるし、ホームルーム中にはまた保健室行きになっちまったし……。
そして何より……早速『女性恐怖症』のことがバレてしまった。
いったい俺は、これから無事に学生生活を送ることが出来るんだろうか……。
===あとがき=====
えっと、今回からあとがきを書いてみることにしました。
……ふぅ、やっとここまで書けた〜!
一応、これで第2話まで終わりましたが、話しの流れ的には『プロローグ』の部分が終わったというところでしょうか。
まぁ、これからようやく翔羽の学生生活がスタートします。
たくさんの女性の中で、翔羽はどう生き延びていくのでしょうか?(笑)
これからの方針としては……色々なイベント要素を盛り込んでいきたいとは思ってます。
せっかく女性ばっかり登場するし、タイトルに『ぱにっく』って言葉が入ってるくらいだから、ちょっとエッチな感じにしてみようかなぁ〜……そういうのを期待して読んでくれてる方もいるかもしれませんし(笑)
まぁ18禁に属されるほどの表現を盛り込んだりはしませんが(汗)
ただ、たとえエッチな表現を盛り込むとしても、それだけにはしたくないと思っています。
読んだ人が笑ったり、勇気づけられたり、切なくて泣きそうになったりしてもらえるようなものにしたいです。
……なんか欲張り過ぎかもしれませんね(汗)
それでは、次話がいつ公開できるようになるかはわかりませんが、どうか見捨てないでいてくださいね〜♪
2003/12/15 5:36 AM
そろそろ誰かが起きてきそうなリビングルームより。